江戸時代末期、剣術の黄金時代。
その中でも輝くべき存在、榊原鍵吉(さかきばら けんきち)
榊原鍵吉の生涯は、まさに伝説の域に達するものでした。
貧しい生まれから始まりながら、榊原鍵吉は、剣の腕を磨き、その輝かしい剣術の技術は、多くの人々を魅了し、明治時代に至っても、その名は、輝きを失うことはありませんでした。
そして、榊原鍵吉の剣術の極致を示す瞬間が、訪れます。
明治天皇の御前で行われた天覧(てんらん)兜(かぶと)割り。
それは、榊原鍵吉の妙技に、大歓声で、包まれる瞬間でした。
榊原鍵吉の生涯と、その驚異の剣技に迫ります。
榊原鍵吉の履歴書
江戸時代の末期、榊原鍵吉(さかきばら けんきち)は、江戸市中の麻布広尾(現在の渋谷区広尾)に、生まれました。
下記の文章では、榊原鍵吉を通称:鍵吉(けんきち)と略します。
鍵吉の一家は、非常に貧しい生活をしていました。
しかし、鍵吉は、13歳のときに、江戸随一の剣術家:男谷精一郎(おだにせいいちろう)の道場に、入門し、剣術の修行を始めました。
鍵吉の剣術の腕前は、急速に向上し、先輩たちを凌駕するほどになりました。
師匠の男谷精一郎は、鍵吉に、自身の流派の免許皆伝を、与えるつもりでしたが、お金のない鍵吉は、辞退しました。
免許皆伝を断った理由ですが、当時は、剣術の免許を受ける時には、師匠に相応の礼金を支払い、そして、お披露目の宴会を大々的に開いて、師匠や先輩剣士、関係者らをもてなすことが、通例だったからです。
師匠の男谷精一郎は、鍵吉の免許皆伝を受けない態度を不信に思い、事情を尋ねると、鍵吉は、正直に、男谷精一郎に、お金がないことを打ち明けました。
男谷精一郎は、鍵吉の事情を理解し、
「お金のことは気にしなくていい。その心配は、ご無用」と、優しく笑っていい、すぐに、鍵吉の免許皆伝の儀式を執り行いました。
その後、鍵吉は、幕府の講武所(男谷精一郎の開設した剣術の訓練期間)の教授方(教師)に、採用され、紀州藩主:徳川家茂(とくがわいえもち)が、14代将軍となると、江戸城の重要な地位である、幕府の(役職)二ノ丸御留守居役(年俸300俵)に任ぜられ、江戸城に登城する身分に出世しました。
この昇進には、師匠の男谷精一郎の推薦も、大きく影響していました。
鍵吉は、御留守居役として、14代将軍になった:徳川家茂の身辺に召されましたが、その剣技の素晴らしさと、律義な性格を将軍:徳川家茂(いえもち)から、「けんきち、けんきち」と愛され、将軍に自身の剣術の技術を伝えることまで、担当しました。
1864年(文久4年)、将軍:徳川家茂が、(世間が騒がしくなった)京都に、軍隊を引き連れて、上洛した際も、身辺警護のために、お供をしました。
1866年(慶応2年)、将軍:徳川家茂が、21歳の若さで、大阪城内で、死去すると、講武所は、陸軍所と改名され、剣術ではなく、洋式の銃隊の練兵所となりました。
鍵吉は、新15代将軍:徳川慶喜には、仕えずに、陸軍の練兵所を退所し、上野下谷車坂(現在:台東区上野)の剣術道場で、門人の指導に、専念しました。
そして、幕末:明治維新の大転換がきて、200年以上続いた徳川幕府は、薩摩長州主体の明治新政府軍に、敗れ、終末を迎えました。
1868年(慶応4年)5月15日、あくまでも、明治新政府軍に従わない、徳川幕府の残党の一部は、上野の寛永寺に立てこもり、彰義隊として、対抗しました。
その前日より、明治新政府軍は、上野寛永寺付近の民家に、立ち退きを命じており、上野付近は、ものものしい雰囲気に、包まれました。
鍵吉は、門人を走らせて、様子を見に行かせ、いよいよ、彰義隊征伐の攻撃軍が、準備されていることを確認すると、鍵吉は、諸道具を片付け、道場を捨てて、上野寛永寺に駆けつけました。
これは、自分の守護の任務は、徳川将軍家ゆかりの上野輪王寺門主:公現法親王(のちの「北白川宮能久親王」(きたしらかわのみや よしひさしんのう))であると思い定めたからです。
鍵吉は、上野に駆けつけるや、法親王を背負って、窮地を脱し、三河島へ避難させ、守り通しました。
彰義隊は、わずか1日で、新政府軍に討伐され、その後の戦いは、越後・会津・函館まで、続きましたが、平定され、徳川幕府は、完全に消滅しました。
江戸時代には、武士の基本的な教養として、剣術は、大ブームで、剣術家の多くは、道場経営で、生活が、できて、尊敬もされていましたが、武士階級の消滅と共に、剣術は、流行らなくなり、町道場も、次々とつぶれました。
鍵吉は、徳川氏を継いだ、田安徳川家の田安亀之助が、徳川家達(いえさと)として、徳川宗家を継ぎ、駿河府中(現在:静岡県静岡市)70万石の一大名として、存続すると、徳川家達は、鍵吉を大番頭として呼び寄せ、1870年(明治3年)まで、鍵吉は、同地で、徳川家に仕えました。
明治新政府の元、武士階級が消滅し、剣術は、衰退の一途をたどりました。
鍵吉は、剣術の衰退は「日本人の精神の荒廃につながる」と考え、
1873年(明治6年)に、剣術家同士による「撃剣会」を結成、剣技の演舞や試合、異種格闘技戦などの見世物興行を、浅草で行いました。
これが、明治新政府の急激な洋式化に、反発する庶民や、旧:士族(武士)の圧倒的な支持を得て、大人気を博しました。
こうして、榊原鍵吉は、貧しい環境から始まり、剣術の名手として名を馳せ、幕末の動乱を乗り越え、明治時代の変革にも、果敢に立ち向かった、歴史的な人物となりました。
神業:天覧兜割り
鍵吉は、一生を通じて、死ぬまで、「まげ」(ちょんまげ)をとかず、道場も閉じずに生き抜き、最後の剣豪として、その名を刻みました。
明治10年ごろには、鍵吉が、幕府激動の時代に、守護した『北白川宮能久親王』(上野輪王寺門主:公現法親王)や、貞愛親王(さだなる しんのう)の伏見の宮家に出入りし、剣術指南を、度々、行いました。
また、1887年(明治20年)11月11日、明治天皇は、伏見宮邸に、御幸され、「天覧兜割り」のイベントを開催しました。
そこには、一流の剣術家が招かれ、南蛮製の鉄兜を剣で割る挑戦が、行われました。
兜割りを試した警視庁の剣術の達人:逸見宗助、上田馬之助も、次々と失敗、刀は、カーンと跳ね返り、兜は、かすり傷も負わず、刀を滑らせて、危うく、倒れる者もいました。
続いて、60歳近い、榊原鍵吉が登場し、名刀:「同田貫正国」(どうだぬき まさくに)を振り下ろし、鋭い金属音と共に、刀を叩き込みました。
その瞬間、刀は、兜にめり込み、明治天皇の御前で、鉄の兜を一刀のもとに割り、見事に兜割りの妙技を成功させ、大喝采を浴びたのです。
明治天皇の前で、鍵吉は、兜割りの難技を成功させ、大きな称賛を受けました。
1894年(明治27年)9月11日、鍵吉は、65歳で、最後の剣豪としての名声を保ちながら、この世を去りました。
榊原鍵吉の壮絶な生涯に触れて、鍵吉の武道への情熱と、逆境を乗り越える力に、感銘を受けました。
鍵吉の剣技の驚異は、まさに神業。
特に、天覧兜割りの瞬間は、圧倒的な迫力で、その技術と勇気に、敬意を表します。
歴史を刻んだ、この一人の剣豪に、敬意を捧げると同時に、鍵吉の努力と信念の魅力に、心が打たれました。