偉人の遺産

長篠の戦い:織田信長と徳川家康の開運への道しるべ

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長篠の戦いは、歴史の中で開運の転機となった出来事の一つです。

技術革新や戦術の進化によって勝利を収めた織田信長や徳川家康の成功は、その後の彼らの栄華を築く基盤となりました。

このような歴史的な節目は、人々にとって勇気や努力の励みとなり、未来への希望と成果をもたらすことがあります。

長篠の戦いは、歴史の糧となり、開運への道を示す重要な教訓として語り継がれています。

『三方ヶ原の戦い』後の徳川家康と武田信玄

徳川家康の生涯唯一の惨敗といわれる『三方ヶ原の戦い』(1573年1月・元亀3年12月)で、徳川家康は、戦国最強の武田信玄率いる武田軍の猛攻を受け、命からがら、浜松城に逃げ帰りました。

浜松城では、徳川家康は、城の城門を開け放ち、かがり火をこうこうと焚き、おお太鼓を叩く【空城くうじょうの計】で、武田軍の追撃を逃れ、危機を脱しました。

『三方ヶ原の戦い』を読んでみる

三方ヶ原の戦いで、大勝利した武田信玄軍は、計画通りに、三河・岐阜、そして京都を目指して、西へ進み、三河の国ざかいの野田城を攻撃し、落城させましたが、その後、急に進路を変え、信濃国に戻ったのです。

武田信玄の持病が、いよいよ悪化したのです。

織田信長、徳川家康らと、戦闘を続けることが、困難となりました。

武田信玄の病状は、そのまま改善することは無く、本拠地の甲斐国に戻ることなく、病死しました(1573年5月)

徳川家康と、織田信長は、戦国最強の武田信玄との対決を幸運にも、乗り切ったのです。

武田信玄は、跡継ぎの武田勝頼かつより

「今後3年間、自分(武田信玄)の死は、隠して、大きな戦いは、しないこと」

と、遺言したといわれています。

これは、自分の死が、世の中の動きに大きな影響を与え、若い武田勝頼だけでは、まだ、自分の領地と、武田軍を制御できないと、考えたからだといわれています。

武田信玄の息子:武田勝頼も、武田信玄の遺言通りに、武田信玄の”死”を隠し、葬儀も約3年は、行われませんでした。

しかし、武田信玄の死は、死の直後から、武田の家中から、「武田信玄は、重病、または、急死した」という 噂があると 敵方の武将たちに、情報が 流れていました。

武田勝頼は、父:信玄と同じく、織田信長、徳川家康との対決姿勢は、崩しませんでしたが、徳川家康も三方ヶ原の戦い以降、再度、着々と戦闘態勢を整え、それまで武田方であった三河の奥平信昌おくだいら のぶまさを徳川方に寝返らせ、長篠城に立てこもらせました。

1575年4月(天正3年)、奥平信昌の寝返りに怒った武田勝頼は、甲斐を出発しました。

15,000人の兵で、奥平信昌のいる長篠城を 取り囲んだのです。

信玄の息子【武田勝頼】の人物像

武田勝頼は、武田信玄の四男で、四郎といい、本来は、平安時代から長く続く、甲斐源氏の名門、武田氏を継ぐ地位には、ありませんでした。

武田勝頼の母親は、信濃の小大名:諏訪氏の娘で、父:信玄の側室でした。

信濃の諏訪氏を再興さいこうし、諏訪四郎すわしろう 勝頼かつよりを名乗り、武田氏の親戚・一門衆として、武田本家を支える立場にありました。

ところが、父:信玄の嫡男の武田義信の家臣が、父:信玄暗殺を謀り、嫡男:義信は追放され、二男は、病で目が見えず、三男は、幼くして死亡したため、四男の勝頼(四郎)が、諏訪氏から、武田本家の家督かとくを継ぐこととなったのです。

開運先生
開運先生

戦国一の強豪軍団を率いる偉大な父:武田信玄が、急死したのですから、跡継ぎである若き武田勝頼の ”苦労” と ”苦悩” は、大変なものであったと思われます。

武田勝頼は、勇敢で、気性も激しく、武田信玄が、生涯、落とすことのできなかった難攻不落の高天神城たかてんじんじょうを数日で落城させるなど、武将としての能力も高かったといえますが、父:信玄の遺言を守らず、偉大な父親を超えようと、有能な宿将しゅくしょうの意見も無視し、無謀な戦いに挑んだといわれています。

無謀な戦い、これが、『長篠の戦い』(1575年6月・天正3年5月)です。

『長篠の戦い』での織田・徳川軍の布陣と戦略

徳川家康の軍、8,000人と徳川家康から援軍を要請された織田信長は、30,000人の大軍を自ら率いて、岐阜を出発しました。

織田信長は、徳川家康と合流し、長篠城の西の設楽ヶ原に布陣しました。

連吾川れんごがわを堀として、背後に馬を防ぐ、巨大な柵を2キロメートルに渡り、張り巡らしました。

この馬防柵の内側には、3,000ちょうの鉄砲を構えた鉄砲隊を配置しました。

酒井忠次(さかい ただつぐ)の奇襲

戦いは、まず、徳川方の家臣:酒井忠次が、織田・徳川軍の別動隊として、迂回して、夜中に長篠城を攻撃していた武田方の砦を奇襲し、陥落させ、酒井忠次は、長篠城に入城しました。

そして、武田軍の猛攻に堪えていた、長篠城の奥平信昌を救出したのです。

磔(はりつけ)にされた 鳥居 強右衛門(とりい すねえもん)

鳥居 強右衛門は、奥平信昌の家臣で、武田勝頼に包囲された『長篠城』から、援軍の要請のために、徳川軍に派遣されました。

長篠城に戻る途中で、武田軍に捕まり、長篠城方に「徳川軍の援軍は、来ない」

と、告げるようにと、武田方から、強制されましたが、

鳥居 強右衛門は、長篠城に向かって、「援軍は、すぐそばまで来ている、もう少しの辛抱だ!」

と、叫び、鳥居 強右衛門は、武田方から、はりつけにされてしまいました。

長篠城内の奥平勢は、この鳥居 強右衛門の様子に 感銘を受け、武田軍の猛攻に耐え、最後まで、長篠城を死守しました。

酒井忠次の別動隊が、長篠城を救出したことにより、武田軍は、織田・徳川軍に、挟み撃ちされる形になったため、武田勝頼は、正面の織田・徳川軍の本体といよいよ激突することとなりました。

織田信長の【鉄砲三段撃ち】

織田信長は、3,000の鉄砲隊を1,000ずつ、3隊に分け、3段構えに配置し、”弾込め”、”点火”、”発射”と、三交代して、途切れることなく、連続射撃をしたという【三段撃ち】を実施しました。

天下無敵の武田軍の騎馬軍団は、これまでも、敵から鉄砲で、攻撃されたことが、度々たびたびありましたが、一発発射してから、二発目を発射するまでの間に突撃して、敵の鉄砲隊を壊滅させていました。

しかし、この長篠の戦では、騎馬の行く手を阻む、馬防柵と連続して発射される大量の銃弾の雨に、武田軍の騎馬軍団は、無謀な突撃を繰り返し織田・徳川軍の鉄砲隊のかっこうの餌食となってしまいました。

戦国時代の鉄砲!火縄銃とは?

戦国時代の鉄砲は、火縄銃で、発射するのに、手間と時間がかかり、連射することは、できませんでした。

①弾込
銃の筒内に発射用の火薬と弾丸を詰めて、カルカという棒状の道具で、筒の先から、火薬と鉛の弾丸を押し込む。

②点火
次に銃の根元の火皿に、着火薬を乗せて、火ぶたを閉め、火縄を取りつける。

③発射
銃を構えて、火ぶたを開き、狙いを定めて、引き金を引く。

引き金を引くと、火縄が火皿の着火薬に点火して、その火が、火穴を通って、筒の中の発射火薬に点火し、火薬が爆発し、鉛の弾丸が、飛びだすというものです。

火縄銃は、訓練を重ねた熟練者でも、1分間に2~3発、発射するのが、限界でした。

開運先生
開運先生

火縄銃の火ぶたを開けることを「火ぶたを切る」といいますが、合戦の開始を意味します。
現在でも「火ぶたを切る」という言葉は、、戦闘開始を意味しますね。

武田軍・大敗北

武田勝頼軍は、織田・徳川軍の鉄砲隊の前に、総崩れとなり、武田軍は、重鎮じゅうちんの山県 昌景(やまがた まさかげ)と、馬場 信春(ばば のぶはる)らは、次々と討ち取られ、武田軍は、敗走はいそうしました。

武田勝頼自身も、わずか6騎のみで、甲府城に落ち延びたといいます。

武田軍最強・山県昌景の【赤備え】(あかぞなえ)

武田家臣団で、最強の武将として、世に知られていたのは、山県昌景でした。

最強部隊として、恐れられた山県昌景の部隊は、甲冑かっちゅうや、旗を朱塗しゅぬりにしており、【赤備え】(あかぞなえ)と呼ばれていました。

山県昌景は、長篠の戦いで、設楽ヶ原での突撃に、反対し、武田勝頼に撤退を進言しました。

しかし、武田勝頼から、「山県は、命が惜しいらしい」と侮辱ぶじょくされ、織田・徳川軍に負けることを承知で、戦場に出る決意をしたといわれ、織田・徳川軍の馬防柵ばぼうさくに、何度も猛攻もうこうをしかけ、最後は、采配さいはいを口にくわえたまま、討ち死にしたといわれています。

武田家滅亡後、【赤備え】の(山県昌景の)家臣たちの多くは、徳川家康方の井伊直正の家臣として、引き継がれ、【井伊の赤備え】として、活躍します。

長篠の戦い・日本史上の転換点としての意義

長篠の戦いは日本史上の重要な戦闘の一つとして位置づけられています。

三方ヶ原の戦い以来の武田軍の圧倒的な有利、織田・徳川軍の劣勢という状況は、一変しました。

徳川家康はこの戦いに勝利し、その後、家康の政治的影響力が、大きく広がることとなります。

逆に武田軍の敗北は、武田氏の没落を象徴し、戦国時代の大名の領土再編や、権力争いに、大きな影響を与えました。

最終的に、武田氏は、衰退すいたい、滅亡の道をたどることとなるのです。

現在では、”織田信長の鉄砲の連続発射” という伝説的な【鉄砲三段撃ち】は、実際には困難であり、不可能であった、といわれています。

しかし、大量の鉄砲を効果的に使用、時間差を置いて、連続的に発射される大量の銃弾は、武田軍の兵士に心理的な圧迫を与えました。

また、銃声の轟音は、武田騎馬軍の馬を驚かせ、攻撃を鈍らせたことは、間違いありません。

さらに、この戦いは、戦国時代の戦術に 大きな転換点をもたらしました。

この戦いにおける鉄砲の優位性は、後の戦国大名たちにも大きな影響を与え、戦場の主力兵器が、騎馬軍団主体から、足軽鉄砲隊主体への転換が、一気に進む契機となりました。

武田軍にも鉄砲隊は、存在しましたが、織田信長のように大きな貿易港である ”堺” を持たず、商業や南蛮貿易も盛んではなかった甲斐国では、鉄砲や弾薬の大量調達が、困難であったことも、大きな敗因とされています。

開運先生
開運先生

長篠の戦いは、日本史上の転換点として重要な位置を占めています。

あまじん
あまじん

この戦いにおいて、織田信長の鉄砲戦術が成功し、戦場の主力兵器が変化する契機となりました。

また、徳川家康の勝利により彼の政治的影響力が拡大し、その後の日本史に大きな影響を与えました。

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