お江戸歴史散策

日本橋魚河岸と佃島漁民たちの奮闘歴史:開運に溢れる物語

アイキャッチ_日本橋魚河岸と佃島漁民たちの奮闘 お江戸歴史散策

このブログ記事では、徳川時代中期の江戸の食糧事情と、日本橋・魚市場うおいちば魚河岸うおがし)の活況かっきょうと、その由緒となる佃島つくだじま漁民ぎょみんたちの奮闘ふんとうを紹介します。

佃島は開運や縁起のある場所として知られ、その歴史は興味深いものです。

江戸時代の食糧事情

徳川時代、江戸の町は、当時、世界一の巨大都市でしたが、その激増する江戸の町の人々の食糧しょくりょう事情をまかなったのは、日本橋周辺の市場【河岸かし】でした。

河岸には、米河岸こめがし塩河岸しおがし、などの商品の荷揚場に あげ ばでしたが、なかでも、一番のにぎわいを見せていたのが、うお河岸【魚市場】でした。

「江戸っ子は、3日間、魚を食べなければ、骨が身から離れちまう!」

というほど、魚好きで、多くの人々が、魚を買って、食べていました。

当時の日本橋の魚河岸では、「一日1,000両のお金が動く」といわれるほどの盛況でした。

日本橋魚市場のはじまり – 佃島

魚市場【魚河岸】のはじまりは、佃島の漁民が、幕府に魚を上納し、余った残りの魚を日本橋の本小田原町で、売ったことをはじめとしています。

その佃島の地名は、摂津国の佃村(大阪市西淀川区佃町)に由来しているものです。

1582年(天正10年)本能寺の変で、明智光秀の謀反むほんにより、織田信長が討たれ、織田信長の盟友であった徳川家康が、堺から三河に脱出する際に、佃村の庄屋『森孫右衛門』をはじめとする佃村の漁民たちが、手持ちの漁船や食料を徳川家康に提供するなど、献身的に働いたといわれています。

さらに、徳川家康の『大坂冬の陣』、『大坂夏の陣』の時にも、食料の提供、密使みっしの役割を果たすなど、徳川家康を何度も助け、佃村の漁民は、徳川家康のあつい信頼を得ました。

佃島の漁民 – 御肴役(おさかなやく)となる

1603年(慶長8年)江戸幕府を開いた徳川家康は、徳川家の『御肴役おさかなやく』として、森孫右衛門や、佃村の漁師りょうし33名と田蓑神社(住吉神社)の神主:平岡権太夫 好次ひらおかごんだゆう よしつぐを江戸に呼び寄せました。

徳川家康は、彼ら漁民たちに、隅田川下流の鉄砲洲向かいの干潟を与えました。

干潟を与えられた漁民たちは、力を合わせて、干潟の荒地を整備して、島を築きました。

この島は、故郷の佃村の名を取って、『佃島』と名付けられました。

関西から移住した佃島の漁民たちは、当時、江戸近郊で、主流であった【たて網漁法】(水中で、平網ひらあみを広げて、魚をからめ捕る漁法)よりも、圧倒的に大量に魚を取ることができる「関西流」の【四つ手網漁法】(地獄網漁法)(傘のような四つ手の網を沈めて、魚を一網打尽いちもうだじんに捕る漁法)と呼ばれる優れた技術によって、江戸幕府より、江戸湾での漁業の特権を得た上、『御菜おさい御用』(おかずを用意すること)を命じられ、魚を徳川家に上納することとなったのです。

冬11月~3月の漁業のシーズンになると、毎朝新鮮なシラウオを白魚献上箱けんじょうばこに入れて、かついで、江戸城本丸へ、運び、献上しました。

その後、余った魚類を日本橋のたもとで、板に並べて、売りさばいたのが、魚河岸(魚市場)の起源であるとされています。

魚市場の起源

佃島の住吉神社の縁起

佃島の漁民たちは、故郷の摂津の田蓑たみの神社(大阪府住吉区)の分神霊わけみたま奉載ほうさい

1646年(正保3年)に、佃島に社殿を建立こんりゅうし、おまつりしました。

これが、佃島の住吉神社の起源です。

この住吉神社の御祭神は、住吉三神、神功皇后(じんぐうこうごう)、徳川家康公の五柱で、江戸湊に位置することから、航海安全と漁業、豊漁の神様として、佃島の漁民の信仰を集めました。

また、三年に一度の例大住吉神社の例大祭は、幕府に許可された由緒正しい祭りで、江戸三代囃子の一つ、佃囃子つくだばやしが、にぎやかに催されています。

【祭り】つくだばやし2023年

日本橋魚市場の繁栄

徳川時代中期には、日本橋の魚市場は、益々活況を呈し

「朝の魚河岸は、一日で、1,000両のお金が動く」

といわれ、昼の芝居町、夜の吉原と並んで江戸の中でも、”大金が動く” 一大産業となりました。

歌川国安の描いた【日本橋魚一繁栄図】では、赤ふんどし、腹かけなどの姿で、威勢いせいよく、働く、魚河岸商人の姿が、描かれています。

にぎやかな魚市場には、大きなマグロを運んでいる人、かごに入ったタコをかつぐ商人、店の前で、熱心に商売する仲買人なかがいにん問屋とんやなど、江戸っ子気質で、生き生きとした、機敏な動作をする、多くの人々がいます。

彼らは、キップの良い商売人であり、活気に満ちた江戸の風を感じさせます。

魚市は、江戸湾で捕れた魚介をはじめ、房総半島、三浦半島、伊豆半島周辺で捕れた魚介類がたくさん集まっていました。

東京湾は、江戸時代、『江戸湾』と呼ばれ、たくさんの漁民が働き、80以上の漁村があり、巨大都市江戸の胃袋を支えました。

佃島の漁民たちは、新鮮な魚介類を捕獲し、魚市場に供給きょうきゅうすることで江戸の食糧供給に欠かせない存在でした。

彼ら佃島の漁民たちの熱心な仕事ぶりは、開運や縁起を引き寄せると信じられていました。

さらに、佃島自体が、開運の地として知られており、その歴史や伝説にも触れながら、佃島漁民たちの努力と貢献がありました。

開運先生
開運先生

佃島漁民たちの開運と縁起に溢れる歴史を通じて、先祖たちの努力を感じました。

次の章では、現代の魚事情/美しい料理への変貌を綴ります。

江戸時代から現代へ:魚事情の変遷

お寿司ケーキ

江戸時代、魚は江戸の食卓に欠かせない存在でした。

しかし、その役割や調理法は時代とともに大きく変わりました。

現代においては、魚を巧みに扱うことが、まさに美食の一環となり、特に注目を集めています。

新鮮で彩り鮮やかな魚介類が、シェフたちの手で驚くべきクリエーションへと変身しています。

そのなかでも特筆すべきは、お寿司ケーキと呼ばれる新しいトレンドです。

お寿司ケーキは、伝統的なお寿司とは一線を画す斬新なアプローチです。

生魚を芸術的に盛りつけ、ご飯や野菜と組み合わせ、まるでケーキのような見た目で提供されます。

これはまさに、視覚と味覚の両方で楽しむ新たな食の体験と言えるでしょう。

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