天海僧正(1536年(天文5年)?~1643年(寛永20年))は、安土桃山時代から、江戸時代初期にかけて、天台宗の比叡山延暦寺で修業した、一流の知識人とされ、徳川家康の “ブレーン” として、重くもちいられましたが、その前半生や出自、素性は、なぞとされています。
徳川家康が、天海僧正の意見を聞こうと、江戸城に呼び寄せて、初めて会った時に、天海僧正の顔を見て、大いに驚いて、周囲に「生き仏にあった!(死んだはずの人に会った)」と言ったといいます。
徳川家康が、なぜ、氏、素性も不明な一介の僧侶を引き立てて、天下の政治、町づくりなどを、天海僧正を信用して、任せたのかについて、一風変わった伝説があります。
天海僧正は、山崎の合戦で、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に敗れて、土民に殺された明智光秀であったというのです。
山崎の合戦後、明智光秀の首級は、京都でさらされましたが、腐敗して、判別できておらず、その首級は、明智光秀の家臣の影武者のもので、明智光秀自身は、逃亡したという噂が、流れていました。
逃亡した明智光秀は、素性を隠して、自分の顔が知られていない関東(武蔵、甲斐)などで、長らく暮らし、徳川家康が、関東に移封され、江戸の城下町を急いで、建設する際に、二人は、会ったのでは、ないかといわれています。
徳川家康は、天海僧正に、会ってすぐに、天海僧正を重用、相談役として、手元に側近としておいたのです。
江戸の町づくり
天海僧正は、江戸の町づくり、増上寺寛永寺など、寺社の造営を主導し、また、朝廷との交渉にも、深くかかわり、大いに成果をあげました。
鬼門封じ
天海僧正の江戸の町づくりで、もっとも重要視したのが、陰陽道、風水の思想に基づく、鬼門を封じることで、邪気や災いが、入ってこないように守ろうとしたのです。
江戸城の本丸から、見て、鬼門の方角は、北東ですが、この方角にあたる上野の地に比叡山延暦寺に倣って、東叡山寛永寺を造立しました。
不忍池の中之島に琵琶湖の竹生島に模した弁財天を祀っています。
さらに同じ北東の方角に神田明神を湯島に移し、浅草寺を徳川幕府の祈願所にして、寺社によって、念を入れて守っています。
邪気の通り道となる正反対の方角の裏鬼門と呼ばれる南西の方角にも、増上寺を徳川家の菩提寺として、祀り、日枝神社も移設しています。
江戸の三大祭りは、神田明神の神田祭、浅草寺(浅草神社)の三社祭、日枝神社の山王祭ですが、この三大祭は、江戸城の鬼門と裏鬼門を祀り清める意味合いが強いといえます。
このように天海僧正は、徹底的に鬼門封じを行ったのです。
天海僧正が明智光秀である根拠
天海僧正が、明智光秀である。という根拠が、数々あります。
①天海僧正の忌み名は慈眼ですが、これは、明智光秀の位牌が、安置されている慈眼寺と忌み名が、同じです。
②天海僧正が、実質的に造営した日光の東照宮には、多数の桔梗の紋が、刻まれていますが、この桔梗の紋は、明智光秀の明智氏の家紋です。
③日光の景勝地の明智平の命名者も天海僧正ですが、この地に明智の名前をわざわざ名づけたのも、不思議なことです。
④春日局を三代将軍徳川家光の乳母に推挙したのも、天海僧正であるといわれていますが、春日局の父親は、山崎の合戦後に、処刑された明智光秀の重臣の斎藤利三であり、明智光秀と春日局は、春日局が、幼少の頃から、面識があり、天海僧正が、春日局が、大奥の実権を握るのを、サポートしたといわれています。
方広寺鐘銘事件
豊臣秀吉の死後、豊臣氏を滅亡に追い込んだ、大阪冬の陣、大阪夏の陣の戦いのきっかけとなった、方広寺鐘銘事件でも、天海僧正が、主導して、徹底して、豊臣氏を攻撃したといわれています。
豊臣秀吉に山崎の戦いで滅ぼされた、明智氏の恨みを晴らした!といえるかもしれませんね。
豊臣家が、再興した京都の方広寺の大仏殿の釣鐘に『国家安康君臣豊楽』という文字が、刻まれていたことに対して、徳川家康がこの文字が ”家康の名” を二分して、国安らかに、豊臣家を君として、繁栄を楽しむと、読み取って、徳川家康を呪う意図があるとして追及しました。
豊臣氏と徳川家康の合戦のきっかけとなったものです。
長命の秘訣
天海僧正は、100歳以上の長命であったとされ、天海僧正が、若い三代将軍:徳川家光に送った長命の秘訣として
「長命は、粗食、正直、日湯、陀羅尼、折々ご下風遊ばさるべし」
という有名なお話があります。
おわりに
どうでしたか?
なぞは深まるばかりですね。
歴史家の中で、明智光秀が天海僧正であったということを主張している人は、皆無で、信憑性は、低いのですが、小説やドラマなど、フィクションでは、ときどき、採用されています。
明智光秀が、天海僧正であったという、通常は、あまり考えられない説があるのは、ロマンのあふれる、非常によくできた話では、ありますね。