偉人の遺産

厄除けで人々の信仰を集めるスーパー超人の【弘法大師・空海】の歩みと伝説

アイキャッチ_空海 偉人の遺産

弘法大師【空海】とは、まさにスーパー超人の一人といえる存在です。

弘法大師【空海】の人生の歩みと伝説を追っていくことで、ご利益を賜たまわりたいと思います。

開運先生
開運先生

弘法大師【空海】は、奇跡と伝説を数多く起こしています。

弘法大師【空海】の奇跡と伝説の数々

四国の池を改修して、空海が杖をついたところから、き水を出して、日照りで苦しんでいた民衆を助けました。

空海は、真言密教みっきょうの修行により、虚空蔵こくうぞう菩薩求聞持法ぐもんじほうをマスターして、一度、見聞きしただけで、全部を覚えることができるようになった。とされ、その修行の完了時には、空の明星(金星)が、空海の口の中に飛び込んできたといわれています。

空海は、書にも優れていて、たちばなの 逸勢はやなりと嵯峨天皇と共に、書道の名人、三筆さんぴつの一人としても有名です。

弘法大師【空海】の「弘法も筆の誤り」

意味:名人、達人でも、時には、失敗することがあるという例え、ことわざ

空海の生涯

774年(宝亀5年)、讃岐の国(香川県)多度たど郡に生まれました。

18歳で大学に入学、その後、阿波の国(徳島県)など、四国の山林をめぐり、修行しました。

31歳で、遣唐使けんとうしとして、船で、唐の国(現在の中華人民共和国)に行き、唐の長安:青龍寺で、恵果けいかの弟子となり、教えを学び、真言宗を開宗しました。

その後、日本の京都に入り、高雄山:神護寺に滞留しました。

高野山:金剛峯寺を開創し、その後、東寺とうじ(京護国寺)を与えられました。

835年(承和2年)に高野山で62歳で、亡くなりました。

死後の921年に醍醐だいご天皇より、弘法大師の諡号しごうをたまわりました。

空海は、遣唐使として、唐に入島後、膨大ぼうだいな密教の経典、法具、絵画などを日本に持ち帰り、真言宗の開祖かいそとなりました。

長安の青龍寺の恵果和尚は、当時、唐 随一ずいいちの皇帝も信頼する高僧でしたが、空海に初めて会った時に、恵果は、「長年、求めていた人物にようやく会えた。」と喜びました。

空海に、真言宗のすべての教えを授け、空海は、真言宗のすべての教えを体得し、その後、恵果は、亡くなったとされています。

東寺(京護国寺)の講堂内には、当時、一般的には、紙に絵で描かれた曼荼羅まんだらが配置されていましたが、空海は、講堂の空間に、仏像を配し、曼荼羅を立体的に表現して、立体曼荼羅とし、真言宗の教えを広めました。

空海は、圧倒的な存在感を見せ、日本京都の宮中きゅうちゅうで、国家安全、五穀豊穣の国家儀式の祈祷を取り仕切りました。

四国八十八か所めぐり(お遍路の旅)

お遍路(おへんろ)の旅

若き日の空海が、修行にはげんだ四国の道である、全長1450キロメートルにも及ぶ、八十八か所の寺を巡礼する旅は、『同行二人』といわれて、弘法大師【空海】と共に歩く、修行の旅です。

四国八十八か所お遍路へんろの旅は、弘法大師【空海】が始めたとか、また、衛門三郎えもんざぶろうが、空海を追うように、四国をめぐったのが、元祖という諸説があります。

(【成田山 東京別院 深川不動堂】でも、四国八十八か所めぐりをすることが、できます。)

衛門三郎(お遍路)の伝説

伊予の国(愛媛県)に、河野衛門三郎という強欲で非道なお金持ちの庄屋がいました。

ある時、一人のみすぼらしい僧侶が、托鉢たくはつに来ましたが、衛門三郎は、僧侶を追い返しました。

前日、追い返したにもかかわらず、翌日も、翌々日も現れたため、8日目に衛門三郎は、怒って、鉢を叩き落して、鉢は8つに割れて、砕け散ってしまいました。

僧侶は、それ以来、来なくなりました。

その後、衛門三郎の家では、不幸な出来事が続き、衛門三郎には、8人の子供がいましたが、毎年、一人ずつ亡くなり、ついに8年目に子供全員が亡くなってしまいました。

悲しみに打ちひしがれる衛門三郎の枕元に弘法大師【空海】が現われ、衛門三郎は、やっと僧侶が弘法大師【空海】であったことに気がつき、許しをうために、田畑を売り払い、家人に分け与えて、妻とも別れて、弘法大師【空海】の姿を追って、四国お遍路の旅に出ます。

しかし、20回、巡礼しても、弘法大師【空海】には、出会えずに、今度は、逆回りに巡礼(逆うち)しても会えず、とうとう、阿波の国(12番札所)焼山しょうざん寺の近くで、倒れてしまいました。

死を目前にした衛門三郎のもとに、弘法大師【空海】が現われたところ、衛門三郎は、今までの非を泣いてびました。

弘法大師【空海】から、「望みはあるか?」と問われると、「来世は、河野家に生まれ変わって、人の役に立ちたい」といい、弘法大師【空海】は、道端の石に、『衛門三郎再来さいらい』と書いて、左手に握らせると、衛門三郎は、静かに息を引き取りました。

その翌年、伊予の国の領主である河野息年やすとしに、長男が生まれましたが、その赤ん坊は、固く左手を握って開こうとせず、心配した河野息年は、菩提寺である安養院の僧侶に祈願させたところ、やっと左手を開き、『衛門三郎再来』と書かれた石が、左手の中から出てきました。

その石は、安養院に収められ、のちに安養院は、51番札所:石手寺と寺号を改め、石は、寺宝とされているそうです。

河野息方やすかたと名付けられたその子は、15歳で、家督かとくを継ぎ、伊予の国の領主となってからは、領民のために情け深い、良い政治を行ったそうです。

お砂踏みの巡礼

お砂踏みとは、四国八十八か所霊場、各札所のご本尊の掛け軸や、お砂をそれぞれ集めて、そのお砂を霊場と見立てて、お砂を踏みながらお参りすることで、ご利益は、実際に、四国八十八か所霊場をお遍路へんろしたこと、と同じこと。といわれています。

空海の言葉

『善を修するがゆえに楽を得る』

意味:良いことだけをしていれば、人生は、楽しい

『善根を断ずるがゆえに邪見を発揮すべからず』

意味:積み重ねてきた善い行いが根こそぎなくなってしまう、よこしまな悪い心を起こすことは、いけません

弘法大師【空海】は、今も高野山:奥之院で生き続けていて、弘法大師御廟で、【空海】は、祈りを続けているとされています。

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