江戸時代末期の幕末から、明治時代にかけて、数多くの外国人が、極東の小さな島国・日本にやってきました。
彼らは、自国とは、まったく異なる文化や風景に出会い、人々の暮らしに触れることで、驚きと、ともに、大いなる賛美と感動が、湧き上がりました。
幕末に日本を訪れた、多くの外国人の中でも、尊敬され、慕われたシーボルト先生とその仲間たちについて、この記事では、紐解いてみましょう。
シーボルト先生の経歴と活躍
名前:フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
出生:1796年、ドイツ南部に生まれる
職業:ドイツ人医師
シーボルトは、若くして、医師の道を歩み、オランダへ渡り、陸軍外科医としての経験を積みました。
その後、オランダの植民地であるインドネシアへ派遣され、陸軍外科医少佐として、任命されました。
1823年(文政6年)には、オランダ領・東インドでの活動が評価され、27歳で、長崎の出島に派遣され、オランダ商人の医師兼自然調査官として、日本に到着しました。
シーボルトは、帰国後、日本に関する膨大な知識をまとめ上げ、その成果として『NIPPON』という書籍を発表し、日本研究の第一人者となりました。
日本での滞在中に行った、シーボルトの自然調査や文化の研究は、当時の日本社会に、大きな影響を与えました。
シーボルトは、日本の植物学、動物学、地理学、民俗学など多岐にわたる分野で、貢献しました。
また、シーボルトの努力によって、日本とオランダの間には、密接な交流が生まれ、さまざまな文化や技術の交換が、行われるようになりました。
シーボルトの功績は、後世にも評価され、彼の名前は、日本の歴史においても、輝かしいものとなりました。
彼は、日本への愛と興味から、国際的な架け橋となり、日本文化の普及にも大きく貢献したのです。
シーボルトの胸像を見に行く:
中央区立あかつき公園
所在地: 〒104-0045
東京都中央区明石町13−14
シーボルト・長崎に着く
シーボルトは、日本の素晴らしい評判をたくさん聞いており、
「私は、日本に行きたくて、うずうずしていた」
と述べるなど、日本への期待を胸に、長崎の港に到着しました。
長崎の港に到着した後、シーボルトの日本での主な仕事は、長崎出島のオランダ商館員の健康管理を担当する商館付医師でした。
しかし、彼は、到着後、3か月も経たないうちに、出島で、通訳や、日本人医師に対して、医学や博物学の教育を始めました。
当時、日本では、西洋の学術や、文化を研究する蘭学が興り、発展し始めていました。
さらに、翌年1824年(文政7年)には、シーボルトは、長崎郊外の鳴滝で『鳴滝塾』を開設しました。
この塾には、日本各地から集まった蘭学者たちが、参加し、彼らは、非常に優秀な学者や、日本人医師であることが、シーボルトの書簡に、しばしば記されています。
シーボルトは、外国人として、特別な待遇を受けていましたが、出島の外には、自由に出歩くことは、できませんでした。
彼は、国外に持ち出そうとした、日本地図の密輸の罪で、告発され、最終的には、国外追放となりました。
これを【シーボルト事件】といいます。
シーボルトの家族
妻・たき
シーボルトは、叔父に宛てた手紙の中で、妻のたきについて触れており、次のような一節があります。
「おそらく、彼女(たき)をヨーロッパの女性と取り換えることは、できないと思います」
と述べています。
しかし、たきの生涯については、詳しく分かっていません。
シーボルトの妻である たき は、彼の日本滞在中に出会った女性です。
彼女の生い立ちや、詳細な情報は、不明ですが、彼女は、シーボルトにとって特別な存在であったことが窺えます。
妻:たきが、シーボルト国外追放後に、シーボルトに宛てた手紙が、オランダで、発見されています。
「あなたからの3通の手紙が、届きました。
私と いね も、無事に暮らしています。
船の旅を心配していましたが、安心しました。
あなたが、昨年、日本からオランダへ帰られてから、涙が出ない日は、ありません。
この手紙をあなたと想って、毎日、忘れることは、ありません。
おいねは、なんでも、わかるようになり、毎日、あなたのことばかりを訪ねます。
私もあなたのことを想い焦がしています。
(中略)
私と おいね のことは、心配しないでください。
叔父さんのところにいますから、心配しないでください。
あなたが病気になりませんよう、祈っています。
どうした縁で、こうなってしまったのでしょう?
そのことばかり、考えています。
(中略)
来年のあなたからのお手紙を首を長くして待っています。
私は、朝と夕にあなたの息災と延命を祈るよりほかは、ありません。
来年も、ちょっとでもいいから、お手紙をください。
ひとえに待っています。
申し上げたいことは、たくさんありますが、次の手紙にします。
名残惜しい筆を止めます。めでたくかしく
寅11月11日
シーボルト様」
手紙は、女性の崩し字で、記され、約4メートルにも及ぶもので、たきの切切ない思いが、したためられています。
シーボルトと、たきの出会いや、2人の関係は、シーボルトの日本での滞在において、重要な一部を占めていることは、間違いありません。
愛の物語は、幕末から明治時代にかけての、外国人と日本人の交流の一端を象徴しています。
娘・いね(楠本 いね)
いねは、シーボルトとたきの娘であり、日本で生まれ育ちました。
当時は、まだ、めずらしかった、混血の女性であるために、幼いころから、差別を受けながらも、彼女は、父親や、鳴滝塾の門下生から、医学や蘭学の知識を学び、その後、自身の情熱と才能を活かして、医師の道に進みました。
時代背景や、当時の社会の制約を考えると、いねが、女性でありながら産婦人科の医師となることは困難な道でした。
しかし、いねは、その困難を乗り越え、勇気と情熱を持って、自身の専門分野で活躍しました。
明治に入るころには、宮内庁付きの、産科医として、明治天皇の女官の出産の際にも、世話役を任命されています。
彼女の功績は、当時の日本社会において、大きな影響を与え、多くの女性たちに勇気と希望を与えました。
いねの存在は、シーボルト一家の医学と知識の伝承を象徴し、また、日本の医療界における女性の地位向上に貢献しました。
彼女の成功は、多くの人々にとっての先駆けとなり、今日の産婦人科医療の発展に大いなる影響を与えたのです。
いねの勇気と才能は、彼女の父であるシーボルトの遺産を継承し、新たな時代に導いたのです。
鳴滝塾の塾生(シーボルトの弟子たち)のその後の功績
シーボルトの弟子たちは、外科、内科、産婦人科など、多岐にわたる医療処置や、最新技術の医療器具に接し、シーボルトを尊敬し、慕っていました。
弟子たちは、シーボルトの教えを受けながら、医療の分野で活躍しました。
伊東圭介(いとう けいすけ)
伊東圭介は、日本で最初の理学博士の学位を授与されました。
また、種痘の実施と普及にも、大いに尽力し、非常に重要な役割を果たしました。
彼の努力によって、日本では天然痘の予防接種が広まり、多くの人々の命が救われました。
美馬順三(みま じゅんぞう)
美馬順三は、ヨーロッパの医学会誌において、日本人として、初めて、学術論文が掲載された人物です。
論文は、日本の医学界において大きな注目を浴び、国際的な評価を得ることとなりました。
彼の業績は、日本人の学術研究の発展に貢献し、日本の医学の国際的な地位向上に一役買いました。
伊東玄朴(いとう げんぼく)
伊東玄朴は蘭方医学の知識と経験を活かし、幕府によって医官として選ばれました。
彼の指導力と卓越した医術は、日本の医学界に革新をもたらしました。
特に神田お玉が池の種痘所の設立は、画期的な出来事であり、そこで行われた種痘の普及活動は、病気の予防と医療の向上に大いなる貢献をしました。
伊東玄朴の熱心な指導のもと、多くの若き医師たちが育ちました。
彼の教えは、日本の医学教育の基礎を築き、後の東京大学医学部の設立にも繋がりました。
功績は、単に医療の領域に留まらず、日本全体の発展にも大きく寄与したと言えるでしょう。
伊東玄朴の偉大な業績は今なお称えられ、その名は医学史において輝き続けています。
絵師:川原慶賀(かわはら けいが)について
川原慶賀は、シーボルトのお抱え画家であり、出島に出入りできる数少ない人物として、当時の日本の様子を細かく描きました。
出島は、一般の人は、立ち入り禁止でしたが、慶賀は、その特権を持つ、出島出入り ”絵師” として、日本の光景を克明に描き出しました。
最初、シーボルトは、慶賀の絵(日本画)に満足しておらず、「ヨーロッパの画家を派遣してほしい」と、東インド政庁総督に要望していました。
しかし、後に、慶賀は、ヨーロッパ風の絵画技法を習得して、日本の動植物、風景、肖像画などを描き始めました。
慶賀は、シーボルトのために尽力し、シーボルトが、国外追放となる1829年(文政12年)までの間、ほとんどの作品は、シーボルトのために描かれました。
また、シーボルトが、オランダに帰国後、出版した、日本研究の集大成である『NIPPON』には、多くの慶賀の作品が、使用されました。
現在、慶賀の作品の一部は、日本に残っていますが、多くはシーボルトを通じて、オランダのライデン国立民族学博物館などに収蔵されています。
その作品は、日本の自然や文化を鮮やかに描き出し、後世に伝える貴重な資料となりました。
シーボルトの著書『NIPPON』は、その時代の最も包括的な日本の記述として評価されており、慶賀の作品は、その貴重なビジュアルコンテンツを提供しました。
大きく運命を切り開いたシーボルト
シーボルトと仲間たちの活躍は、日本と西洋の交流を開拓し、知識や文化の交換を促進するという意味で、まさに「開運」と言えるものでした。
シーボルトは、日本に渡り、医学や博物学の知識を広めるだけでなく、日本の素晴らしさを世界に紹介しました。
弟子たちも、それぞれの分野で優れた成果を上げ、日本の医療や学術の発展に貢献しました。
また、川原慶賀の絵画は、日本の風景や生物を鮮やかに描き出し、日本の美を世界に広める役割を果たしました。
これらの活動によって、シーボルトと彼の仲間たちは、日本と西洋の間の架け橋となり、互いの文化や知識を豊かに交流する機会を、創り出しました。
彼らの功績は、日本の近代化や学術の進歩に大きな影響を与えたばかりでなく、多くの人々に開かれた新たな世界をもたらしました。
シーボルトと仲間たちは、西洋と日本との文化交流を促進しました。
これにより、絵画、言語、技術、宗教、哲学などの異なる分野での知識と理解が深まりました。
シーボルトとその仲間たちの努力と情熱は、未来への希望を抱き、文化の交流と発展を促進するうえで、大きな運命を切り開いたと言えるでしょう。