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【神君伊賀超え】お見事!徳川家康の大脱出劇|その後の天下取りへいざ

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本能寺の変- それは、徳川家康が、織田信長と共に、天下の統一を目指す前に立ちはだかった壮絶な局面でした。

盟友:織田信長が明智光秀の謀反により、討たれた中、さまざまな困難や危険が待ち受け、徳川家康は、決断を下しました。

この決断こそが、「神君伊賀超え」。

それは、敵に包囲された中で、領国:三河へと戻るための徳川家康公最大の艱難かんなんといわれる物語です。

この記事では、徳川家康が、直面したピンチ、忠実な家臣たちの団結、そして、逃げ切るために採った冒険的なルートなどを詳しく探求します。

また、途中で出会った人々や彼らの運命にも触れ、この壮大な旅が彼らにどのような影響を与えたのかを考察します。

さらに、神君伊賀超えの後日談も明らかにします。

徳川家康とその家臣たちは、脱出後どのような行動をとり、天下統一への道を歩んでいったのでしょうか。

この記事を通じて、徳川家康の「神君伊賀超え」の物語に引き込まれ、偉大なる遺産を再発見しましょう。

この勇敢なる行動は、私たちにも勇気と希望を与えてくれることでしょう。

神君伊賀超え

「神君」(しんくん)とは徳川家康のことで、後に江戸幕府を開き初代将軍となった家康は、東照大権と称され、東照宮神社(日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮など700社)に神として祀られました。

物語は1582年(天正10年)6月2日に起こります。

織田信長が、本能寺で明智光秀に謀反を起こされ討たれた時、徳川家康は、織田信長の勧めもあり、堺で、お茶会や上方見物を楽しんでいたのです。

「織田信長討たれる」との一報が、京都の徳川家康ひいきの豪商・茶屋四郎次郎清延によって、徳川家康の元に届きました。

(茶屋四郎次郎とは?⇒茶屋四郎次郎:開運商人の秘密とは?驚愕の真実に迫るを読んで見る)

明智光秀は、家康が堺に滞在していることを知っており、家康に追手を差し向けることは明らかでした。

しかし、家康の連れていた家臣は、数十名であり、また、明智光秀に、対抗すべき、織田信長派の重臣たちも、各地で敵と戦っていました。
(羽柴秀吉は、中国で毛利と戦っており、柴田勝家は、北陸で、上杉氏と対峙し、滝川一益は、関東で関東平定戦を行っていました)

すぐに打倒、明智光秀の兵をあげることは、困難でした。

京都や大阪周辺には明智光秀の勢力が広がっており、家康を守る軍隊は、存在せず、家康は途方に暮れました。

家康は「もはや、これまで…」と切腹しようと考え、京都の徳川氏の菩提寺である、知恩院に赴くことを決めました。

しかし、家臣たち(酒井忠次や本多忠勝)に説得され、ごくわずかな手勢と共に盟友である織田信長の弔い合戦をするために、領国の三河に戻ることを決意しました。

しかし、堺から三河への帰路は、容易なことでは、ありませんでした。

大阪、京都の主要な街道は、明智光秀の勢力に制圧され、山間の険しい道を通る他に方法は、ありませんでした。

さらに、地元の土豪や野盗などが、襲撃してくる可能性もありました。

徳川家康の進路は、諸説ありますが、堺や和泉から河内を抜けて宇治田原(山城)や小川城(甲賀)、柘植(伊賀)を通り、関や亀山を経由して白子(伊勢)に到着し、船で伊勢湾を渡って三河の大浜に到着したとされています。

このルートは現在も国道や県道、鉄道(JR近鉄)が通っていますが、山、また山で峠や長いトンネルをいくつも通らなければならない難所であります。

家臣たちの団結

徳川家康の家臣たち(記録によればわずか34名)は、団結して困難を乗り越えました。

茶屋四郎次郎清延は、徳川家康より先回りして各地の土豪に金銀を配り、徳川家康の安全を確保しました。本多忠勝は、次々と襲ってくる落ち武者を名刀で切り捨て、徳川家康を守りました。

地元の多羅尾光利(宇治田原)や服部半蔵正成(伊賀)も食料や安全な宿を提供し、土豪や忍者に徳川家康の安全と護衛を頼みました。

この神君伊賀超えは、本能寺の変が起こった6月2日から3日間、4日の間に成し遂げられました。

徳川家康は堺から三河までの山道をわずか3日間で駆け抜けました。

開運先生
開運先生

堺から三河までの山道を3日間で走破したのは、羽柴秀吉(=豊臣秀吉)の中国大返しにも匹敵する猛スピードです!(当時、豊臣秀吉は羽柴秀吉という名前を使用していました)

(尊敬できる偉人たちの「中国大返し」のお話を読んでみる)

徳川家康はこのような危機的な状況でも、有能で忠実な多くの家臣の貢献と機転によって、危機を脱しました。

34名の随行者の名簿があります。
酒井忠次、本多忠勝、石川和正、榊原安正ら重臣が単独でお供をしていたわけではないので、34名ではなく、数百名は、雑兵が、いたのではないかと思われますが、かなりな数の雑兵が戦死(200名以上)したともいわれています。

このことから、徳川家康公はまさに神君と称されるべき存在であり、その後の天下統一への道も築いていったのです。

開運先生
開運先生

このような危機にも、徳川家康は、有能で忠実な多くの家臣の貢献と機転により、危機を脱出したことは、さすがは、のちに天下統一をするまさに神君・徳川家康公といえるものですね。

穴山梅雪(あなやま ばいせつ)

穴山梅雪は、かつて、武田信玄の重臣であり、また武田氏の親戚でした。

しかし、武田信玄の死後、武田氏から、織田信長方に寝返り、武田氏の滅亡を招いた人物でもあります。

徳川家康と、安土堺の旅を共にしていた穴山梅雪は、逃亡を試みる途中で、徳川家康とは、別行動を取りましたが、落ち武者狩りの被害に遭い、土豪どごうによって殺されてしまいました。

穴山梅雪の死因については、以下の二つの説があります。

① 高価な着物を身に着けていたため、徳川家康と間違われて殺された。

② 徳川家康の家臣(本多忠勝や榊原安正など)が、徳川家康の身代わりとなり、土豪に殺させ、徳川家康が逃げる機会を作った、とも言われています。

そのため、穴山梅雪は、名もない土豪によって殺される、という悲惨な最期を迎え、徳川家康公の卓越性たくえつせいが一層際立つ結果となりました。

開運先生
開運先生

いずれにしても、

もし徳川家康が、一歩間違えていたら、本能寺の変の時点で織田信長と共に命を落としていた可能性もあります。

このような状況を考えると、徳川家康の運命や生存は非常に危ういものであったと言えるでしょう。

神君伊賀超えの後日談

徳川家康と家臣たちは、領国三河に戻った後、しばらくの休息をとりました。

歴戦の勇士たちでも、何日も寝込むほどの疲労を抱えていたと言われています。

その後、明智光秀を討つための軍勢を整え、三河を出発しました。

しかし、途中で(尾張付近で)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が中国地方での戦いを終結させ、山崎の戦い(天王山の戦い)で、明智光秀を打ち破ったとの報せを聞き、徳川家康は、三河へ引き返しました。

天下は、織田信長から羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の手に渡り、徳川家康の天下統一は、その後となることになるのです。

この時、徳川家康を助けた茶屋四郎次郎清延は、徳川家の御用商人として引き立てられました。

多羅尾光利(たらお みつとし)は、豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)に仕え、8万石の大名となりますが、豊臣秀次の失脚に伴い、改易かいえきされる運命に、翻弄ほんろうされます。

服部半蔵は、徳川家康の家臣団の一員となり、忍者集団の、伊賀の集団の長として、8千石の旗本に、任じられました。

また、服部半蔵の屋敷が、江戸城の西門のそばにあり、警備に携わっていたことから、現在の半蔵門の名前の由来となりました。

あとがき

徳川家康の「神君伊賀超え」は、徳川家康の勇気と知恵、そして、忠実な家臣たちの支えによって成し遂げられた困難な試練でした。

記事では、徳川家康と家臣たちが、直面した危機や困難、そして、その後の展開について触れました。

穴山梅雪や茶屋四郎次郎清延、多羅尾光利、服部半蔵など、個々の人物の運命や、功績も紹介しました。

この物語は、困難な状況下での決断や、行動の重要性を示しており、私たちにとっても学びのある内容です。

この記事を通じて、徳川家康と「神君伊賀超え」の物語をお伝えできたことを嬉しく思います。