戦国時代から江戸時代の豪商、茶屋 四郎次郎(ちゃや しろうじろう)の謎に迫ります。
その驚異的な行動力と情報力は、単なる商人の域を超え、まるで忍者の首領そのものでした。
茶屋 四郎次郎が、徳川家康を助け、茶屋家を繁栄させた秘密とは、一体何なのか?
そして、茶屋 四郎次郎が関わった、本能寺の変での活躍ぶり。
さらに、徳川家康の死因にまつわる都市伝説も明らかにします。
開運の鍵を握る 茶屋 四郎次郎 の真実に迫る 一大特集です。
初代の 茶屋 四郎次郎 清延(ちゃや しろうじろう きよのぶ)
茶屋 四郎次郎は、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した豪商でした。
初代の『茶屋 四郎次郎 清延』は、1545年(天文4年)から1596年(慶長元年)まで、生きていた人物です。
初代:清延の出身は、はっきりしていませんが、三河出身の武士とも言われています。
父親の代で、京都に移り住み、呉服屋を経営しました。
清延の店は、大いに繁盛し、清延自身も豪商となりました。
元の苗字は、中島でしたが、ある時、当時の将軍である足利義輝が、茶屋 四郎次郎 の屋敷で、お茶を飲むために立ち寄ったことから、初代:清延は、名前を「中島」姓から、「茶屋」の姓に改名し、それ以降、代々の当主は、「四郎次郎」と名乗ることになりました。
その後、徳川家康が、初めて京都に訪れた際に、茶屋 四郎次郎 清延は、抜群の行動力と、情報力で、家康をサポートし、彼の信頼を得ました。
また、茶屋 四郎次郎 清延は、武士としても、優れた能力を持っており、三方ヶ原の戦いにも参戦し、戦場で、多くの手柄を立てました。
そのため、徳川家康からは、「橘」の家紋を授けられたとされています。
茶屋 四郎次郎 清延の中で、最も有名な出来事は、「本能寺の変」でした。
この事件では、織田信長が、明智光秀の謀反によって、討たれました。
当時、徳川家康は、堺に滞在しており、茶屋 四郎次郎 清延は、徳川家康の一行に、迅速に情報を届けるために、奮闘しました。
そして、徳川家康を 堺から三河への脱出劇「神君伊賀越え」に、導きました。
彼は、忠実に徳川家康を支え、自己犠牲的な援助を行いました。
茶屋 四郎次郎 清延の行動力と、情報力は、単なる商人の能力を、超えていました。
彼は、あらゆる場所に、スパイを送り込んで、敵の居場所の情報を収集し、正確な情報を、素早く把握し、徳川家康一行の身を守るために、先導して、地元の衆に金銀を配って、迅速に行動しました。
その働きは、まさに、忍者の首領そのものでした。
結果的に、徳川家康は、生涯で、最も困難な状況を克服し、茶屋 四郎次郎 清延に、大いに感謝しました。
それ以降、茶屋家は、徳川家の御用商人として、特別な待遇を受け、呉服商や貿易商として、大きな利益を得ることが、できるようになりました。
初代の茶屋 四郎次郎 清延自身は、江戸幕府の成立よりも前に、亡くなってしまいましたが、彼の息子たちは二代目、三代目として、茶屋四郎次郎の名跡を受け継ぎ、茶屋をますます成長させました。
三代目:茶屋 四郎次郎 清次(ちゃや しろうじろう きよつぐ)は、徳川家康を殺した?
徳川家康の死因には、興味深い噂話が、存在します。
その話によれば、当時は、まだ、珍しかった「天ぷら」が、関与していたと言われています。
ある俗説によれば、徳川家康は、「天ぷら」に強い魅力を感じ、それを非常に、気に入っていたとされています。
ところが、ある日、徳川家康は、天ぷらを食べ過ぎてしまい、腹痛を起こした、といわれています。
この逸話には、興味深い偶然が、存在します。
なんと、天ぷらを徳川家康に勧めたのが、茶屋 四郎次郎の三代目である清次(きよつぐ)だったというのです。
もちろん、この話は俗説に過ぎませんし、徳川家康の死因と「天ぷら」の因果関係を証明するものでは、ありません。
しかしながら、この徳川家康の神号は、人々の間で語り継がれ、いくつかの心霊スポットや、幽霊話の題材ともなっています。
茶屋 四郎次郎は、徳川家康を助ける一方で、徳川家康の最期に関わった、ともいわれています。
茶屋 四郎次郎が、徳川家康の運命に、密接に関与していたとする、この都市伝説は、私たちに不思議な感覚を与えます。
果たして、天下を取った英雄の徳川家康を命がけで支えたのと同じ人物が、徳川家康の最期をもたらしたのか、それとも、偶然の一致なのか、真実は、闇に包まれたままです。
徳川家康は、大坂夏の陣で、豊臣家を滅ぼし、名実ともに、天下統一を成し遂げた、わずか1年後に、「東照大権現」として、徳川家の守り神となって、徳川家と、江戸の安泰を願いながら、亡くなりました。
戦国時代には、なぞに包まれた、おもしろい都市伝説が多いですね。