十返舎一九(じっぺんしゃいっく)は、江戸時代後期の文化人で、文学作品を多数残し、また、狂歌や浄瑠璃の作者としても知られています。
作風は、ユーモアたっぷりで、人々を楽しませることに長けていました。
また、身分に関わらず、誰にでも分け隔てなく接し、多くの人々から愛されました。
そのため、「十返舎一九は、ご縁を呼ぶ」とも言われ、今でも多くの人々に親しまれています。
作品は、様々なものがありますが、どの作品も人々の心を豊かにするものばかりです。
十返舎一九のユーモアには、開運効果があり、彼の作品を楽しむことで、心が明るくなり、運気が上昇するとされています。
代表作『東海道中膝栗毛』(本)は、多くの人とのご縁があり、笑いと涙のお話です。
作者の十返舎一九は、どのような人だったのでしょうか。
十返舎一九の歩み
十返舎一九は、1765年に駿府(静岡県)の下級武士の家に生まれ、大阪や江戸で、さまざまな本を出版しました。
1802年に初版が出版された『東海道中膝栗毛』は、空前の大ヒットで、十返舎一九は、日本初の原稿料で生活するプロの作家であるといわれています。
『東海道中膝栗毛』の内容は、東海道(江戸から京都)を旅行する2人:弥次郎兵衛(やじさん)と喜多八(きたさん)のドタバタ珍道中を記したものです。
題名の『膝栗毛』の意味は、『東海道中膝栗毛』は、徒歩の旅なので、徒歩を意味する⇒自分の膝は、栗毛の馬の代わりのように、テクテク歩く、という意味です。
出版当時の江戸時代の後期は、大衆の文化が大いに発達し、寺社参拝などの名所めぐりの旅行も、盛んとなり、多くの旅のガイドブックや、旅行記や名所絵図の出版化がされていましたが、『東海道中膝栗毛』は、滑稽本という、二人のコンビの新鮮な面白話を綴ったことで、新しいジャンルを開いて、大ヒットとなりました。
最終的には、『東海道中膝栗毛』は、続編など、20年にわたり、全43冊(金比羅参詣【木曽街道編】【善光寺道中編】【中山道編】)などが出版されました。
『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)話の内容
『東海道中膝栗毛』のお話の内容を少しお話します。
江戸で、お金と人間関係の失敗を重ね、騒動を起こした遊び人の二人(弥次郎兵衛⇒ヤジさん、喜多八⇒キタさん)は、ゲン直しの為に伊勢参りに行こうと日本橋から出発しました。
京都大阪を目指す旅に出ます。
小田原宿編
小田原宿では、宿のお風呂が五右衛門風呂(大きな鉄釜に入った水を下から薪で沸かした風呂)です。
五右衛門風呂に入る時は、鉄釜の風呂のすのこを自分の足で、踏み沈めて入るのですが、二人は入り方がわからず、足がやけどをしないように、下駄をはいて、五右衛門風呂に入りました。
きたさんは、五右衛門風呂の中で、はしゃぎまくり、窯の底を下駄でぶち抜いて、穴をあけてしまいました。
するとお湯が火に入って、もうもうを煙が立ち上り、大騒ぎとなりました。
蒲原宿編
蒲原宿では、二人の到着時に、ちょうど、大名の一行が、到着し、宿は、てんてこまいとなり、きたさんは、そのどさくさにまぎれて、台所に入り込み、たらふくご飯を食べてしまい、やじさんの分まで、自分の手ぬぐい(ふんどし)にご飯を包んで、やじさんへのお土産にしました。
その夜、きたさんは、寺社めぐり旅行中で、宿の2階にいる娘の寝床へ忍び込もうとしますが、間違えて、宿のおばあさんの布団に入り込み、驚いて、天井をぶち抜いて、弁償させられました。
府中宿編
駿府城の城下町の府中宿では、二人は、飲んで歌って、大騒ぎをしました。
安倍川編
安倍川では、川を越える人足に「雨の増水で大水になっている」と嘘をつかれ、わざと深いところで、肩車をして川を渡って、高く料金をふんだくられました。
丸子宿編
丸子宿では、名物のとろろ汁を食べる二人ですが、その宿の夫婦が夫婦喧嘩をはじめて、二人は、とろろ汁まみれになってしまいました。
浜松宿編
浜松宿では、二人は、歩き疲れて、あんまを頼みました。
このあんまに「この宿には、幽霊が出る」とさんざん脅されます。
夜中に小便をしたくなった二人は、怖くて、便所に行くことができずに、庭にしてしまおうとしますが、庭に何か白いものが動いたので、悲鳴を上げて、宿の人を起こして、大騒ぎします。
庭の白いものは、取り入れ忘れた洗濯ものでした。
大阪編
二人は、大阪では、町の案内人の佐平次と一緒に名所をめぐります。
天満橋で、町のケンカを見物したあとに、天満宮を参拝し、偶然、富くじ(宝くじ)を拾い、坐摩神社の富くじの会場に行き、拾った宝くじが1等100両の大当たりだったので、大喜びして、祝い酒をたらふく飲みました。
数日後、当たりくじをお金に変えようと、会場に行った二人ですが、なんと宝くじは、番号は、あっていましたが、組違いで、はずれくじでした。
二人は、しょんぼりして、帰りました。
いつでもどこでも、悪ふざけと、大騒動を巻き起こす二人ですが、現在のコントのような話で、おもしろく、大ヒットしたのがわかります。
十返舎一九ご臨終のときがきた
十返舎一九は、1831年(天保2年)67歳で、死去しますが、その死に際についても、明るい逸話があります。
十返舎一九は、弟子に遺言で、
「私が死んでも、体を水で清めては、ダメです。
土葬ではなく、必ず、火葬にしてください」というものでした。
その遺言通りに、火葬が行われたところ、火葬炉から、ドカンと激しく、花火がうちあがったといわれています。
さらに驚くべきことに、自分の死に装束の中に、花火をしこんでおり、多くの参列者をびっくりさせたそうです。
花火は、びっくりしますが、最後まで、ユーモアたっぷりで、みんなを楽しくさせる奉仕の人物だったのですね。
十返舎一九の遺体は、浅草の東陽院に葬られましたが、残念ながら火災で建物は焼失し、その後は、東京都中央区勝どきにある新たな東陽院に移転しました。
お墓も、東陽院に移っています。
十返舎一九の有名な辞世の句(短歌)があります。
「この世をば どりゃ おいとまに せん香の 煙とともに 灰左様なら」と詠んでいます。
この句は、お線香の煙が天に昇るように、この世を去る覚悟を表現しています。
十返舎一九は、その独自の人生観や死生観を持つ個性的な文学者であり、その逸話や句が、彼の個性を象徴しています。
十返舎一九の物語は、彼の人生と死に対するユニークな考え方を示しており、日本文学史において特別な存在として覚えられています。