明治時代以前、日本には珍しい動物たちが、見世物として登場し、人々を驚かせました。
本記事では、江戸時代から、明治時代にかけての、動物見世物の変遷と興行主の活躍を紹介します。
江戸時代には、海を渡ってやってきたヒョウ、虎、ラクダ、ヤマアラシ、オウムなど、異国情緒に溢れる珍獣たちが、大いに人気を集めました。
明治時代に入ると、多様な動物が、一つの興行で楽しめる”動物バラエティ”が、人気となり、上野動物園の開園によって動物園の概念が形成されました。
唐人の異国情緒や、ご利益の要素は、時代の変遷とともに失われ、珍しい動物見世物は、遂に幕を閉じました。
その軌跡は、今も私たちに鮮やかに残り、当時の喧騒と、驚きに思いを馳せることができます。
この記事では、その一連の変遷と現代の動物園の発展について探っていきます。
江戸時代に未知の珍獣たちが海を渡ってやってきた!
珍しい動物を見ることは、今日でも楽しみの一つです。
特に、上野動物園のパンダ、名古屋の東山動物園や多摩動物園のコアラ、鳥羽水族館のラッコなどの人気者たちは、注目を浴びています。
しかし、江戸時代には文字通り、未知の珍獣たちが海を渡ってやってきました。
ラクダ、ヒョウ、虎、象など、これまで見たこともない動物たちに庶民たちは興味津々でした。
当時、庶民は見世物小屋に列を作り、これらの珍しい動物を一目見たいと集まりました。
これらの動物は人々にとって非常に珍しい存在であり、異国情緒や神秘性を感じさせました。
さらに、これらの珍獣たちにはありがたいご利益があるとも言われました。
人々はこれらの動物を信仰し、幸運や福をもたらす存在として崇めました。
珍しい動物の見世物は、当時の文化交流や舶来品の一環として重要な役割を果たしました。
人々にとって、これらの動物は未知の世界への窓であり、異国の不思議さと魅力を伝えるものでした。
早速、江戸時代の珍獣たちを見てみましょう。
ラクダの見世物
1821年(文政4年)、オランダ船によってアラビア産のヒトコブラクダのオスとメス2頭が、長崎に到着しました。
その後、2年後の1823年(文政6年)には大阪、そして3年後の1824年(文政7年)には、江戸・両国での見世物興行に出演しました。
当時の日本の興行主は、このラクダを連れて歩き、「唐人」の装いをして、舶来の楽器を鳴らすなどの演出を行い、異国情緒を演出しました。
これにより、人々は、驚きを覚え、大きな話題となりました。
さらに、この珍獣であり霊獣でもあるラクダには、様々なご利益があると信じられていました。
例えば、一目見るだけで疱瘡や発疹を避けることができ、悪病を除け、福を招くといった効果があると言われていました。
また、ラクダの絵図は雷除けになり、ラクダの尿からは薬が作れると信じられ、さらにはラクダの毛を焼いた灰が薬として使用されたとされています。
これらの話題が広まり、一大のラクダブームが巻き起こりました。
ヒョウと虎の見世物
1860年(万延元年)、横浜港を出発し、江戸・両国で、ヒョウの見世物興行が、開催されました。
最初は、ヒョウは、誤って、「虎のメス」と紹介されていました。
しかし、1861年(文久元年)になると、本物の虎が、横浜港を経由し、江戸・麹町で、見世物興行が行われました。
この時にようやく、『虎とヒョウ』が、正確に区別されるようになりました。
このヒョウと虎の見世物は、人々に大きな関心を引き、一度は、ヒョウと勘違いされた虎の存在は、大いに注目を浴びました。
さらに、本物の虎の登場により、興奮は最高潮に達しました。
ヒョウと虎の見世物は、当時の江戸時代の人々にとって非常に珍しいものであり、その迫力と神秘性によって、大いなる驚きと話題を提供しました。
ヒクイドリの見世物
1789年(寛政元年)、オランダの貿易船によって、ヒクイドリが、長崎に舶来されました。
翌年には大阪で、その翌々年には、江戸で見世物として展示されました。
当時、この鳥はダチョウと紹介されていましたが、実際には、大型で走るのが速いが、飛べないヒクイドリ(エミューの仲間)であることが、判明しました。
ヒクイドリの見世物は、当時の人々にとって珍しいものであり、人々は、大いなる驚きを覚えました。
ヤマアラシの見世物
ヤマアラシの見世物が長崎に舶来され、大阪で展示されました。
このヤマアラシは、インドの天竺の霊山からやってきた霊獣とされ、病気の平癒などさまざまなご利益があると信じられていました。
当時の人々は、ヤマアラシの存在に驚きと関心を抱きました。
この珍しい動物の見世物は、異国情緒を味わい、人々の間で、興味深く受け入れられました。
象の見世物
1862年(文久2年)、アメリカ商船が、マラッカから、横浜へ、インド象をもたらしました。
その後、文久3年からは西両国で見世物として展示され、大ヒットとなりました。
従来の唐人立ち合いのパターンとは異なり、実際の外国人象使いが同行するというリアルな演出が行われました。
この象の見世物は、当時の人々にとって非常に興味深いものでした。
象は、大型で力強く、また珍しい動物として人々の関心を引きました。
さらに、外国人象使いの参加により、興行の臨場感が増し、より一層リアリティが生まれました。
この象の見世物は、大成功となり、多くの人々が訪れ、話題となりました。
異国情緒を味わい、驚きと、興奮、異国の神秘とエキゾチックな要素を感じることができる、貴重な体験となりました。
珍獣たちの見世物が、江戸時代に盛んに行われましたが、次に、それを主催した興行主(現在でいうところの芸能事務所の社長)の伝記を読んでみましょう。
興行師・鳥屋熊吉さんのお話
伊勢松坂(現在の三重県松坂市)出身の興行師、鳥屋熊吉(とりや くまきち)さんのお話です。
幕末から明治時代にかけて、鳥屋熊吉さんは、動物見世物、曲芸、歌舞伎の興行で活躍しました。
彼は最初、珍しい鳥(インコ、オウム、孔雀など)を扱う『鳥屋』として出発し、その後、虎を手に入れて、虎の見世物や、象の見世物、歌舞伎興行などでも成功を収めました。
明治時代に入ると、鳥屋熊吉さんは大阪での歌舞伎興行で失敗しましたが、その後、東京本郷の春木座で、斬新な試みとして入場料の安い歌舞伎興行【鳥熊芝居】を行い、大入りを果たしました。
この試みは、近代歌舞伎の方向性にも、多大な影響を与えました。
しかし、明治23年(1890年)4月、鳥屋熊吉さんは大阪で亡くなりました。
鳥屋熊吉さんは、興行業界で活躍し、多くの人々に楽しみと感動を提供しました。
彼の独自のアイデアや試みは、興行界において大きな影響を与え、彼の名前はその功績を称えられています。
明治以降から、現代の動物見世物事情
明治以降の動物見世物は、江戸時代から、大きく変化しました。
動物見世物の興行も、新たな形態を取りました。
ヒョウ、虎、ラクダ、ヤマアラシ、オウムなど、様々な動物を一つの興行で楽しむことができる、動物バラエティが人気となり、それは、現在の動物園の概念に近いものとなりました。
この時期には、【教育参考動物会】といった名称の興行も多く行われました。
また、1882年(明治15年)に開園された【上野動物園】は、日本最初の動物園として、博物館の付属施設として、大いに栄えました。
しかし、不思議な唐人の異国情緒や、様々なご利益といった要素は次第に失われ、【不思議な動物見世物】は、終焉を迎えることとなりました。
明治時代以降、動物園は、教育や研究の場として発展し、現代の動物園の形態へと進化していきました。
今日では、動物園は、単に、珍しい動物たちを見るだけでなく、その生態や、習性についても、学ぶことができる場所として、多くの人々に愛されています。