江戸時代には、徳川幕府の成立により、社会は天下泰平となり、一般庶民も余暇を楽しむことが、できるようになりました。
特に、五街道をはじめとする街道の整備が進み、各地に宿場町や宿泊施設が新たに作られたことで、庶民は各地の神社や寺院を訪れ、ご利益を得ようとする民間信仰が、大変な人気を集めました。
江戸時代の巡礼ブームは、人々の間で、大変な人気を集めました。
七福神めぐりや稲荷神、地蔵や道祖神への信仰、そして伊勢参りや、富士講、江の島詣、成田詣、大山詣、善行寺参り、金毘羅参りなど、さまざまな巡礼が、人々の関心を引きました。
この記事では、巡礼ブームの信仰を紹介し、そのご利益についてまとめます。
巡礼がもたらす、人々の心の安らぎや願いの成就を探りながら、江戸時代の巡礼ブームに迫っていきましょう。
【七福神めぐり】(しちふくじん めぐり)
江戸時代には、徳川家康自身も推奨した幸福をもたらすとされる七福神めぐりが、江戸っ子たちの間で、大流行しました。
七福神とは、恵比寿、寿老人、福禄寿、毘沙門天、弁財天、布袋様、大黒天の七柱の神様です。
これらの神様は、それぞれが、特定の恩恵や幸運をもたらすと信じられており、人々は、七福神を巡る巡礼を通じて、幸福と繁栄を求めました。
七福神めぐりは、江戸の街を彩るさまざまな神社や寺院を訪れることで、行われました。
それぞれの神様には、独自の伝説や象徴があり、その物語性や神秘性が人々の興味を引きつけました。
【稲荷神】(いなりしん)
日本全国には、稲荷(きつね)を祀る神社が、3万社以上存在し、五穀豊穣や商売繁盛の神様として人気を集めています。
江戸時代の稲荷神は、日本の民間信仰において、特に重要な存在です。
稲荷神は、きつねの姿をとり、”稲の守護神” として知られています。
きつねは、日本の伝説や民話において、知恵や狡猾さの象徴とされ、人々の興味と魅力を引きました。
稲荷神は、五穀豊穣や農業の神として信仰され、農民たちにとっては、豊かな収穫や安定した生活を願う対象でした。
同時に、商人たちにとっても、商売繁盛や商談の成功を祈る重要な神様であり、商業の中心地には、必ずと言っていいほど稲荷神社が存在しました。
人々は、稲荷神社を訪れ、厳かな神事や祭りに参加することで、幸運や繁栄を祈願しました。
また、稲荷神社は、美しい自然環境に囲まれていることが多く、その風景や神社の建築美も魅力の一つとなっています。
稲荷神への信仰は、日本の文化と風習に深く根ざした民間信仰の一環であり、多くの人々にとって、心の支えとなってきました。
【地蔵】(じぞう)
「地蔵」とは、仏教の中の地蔵菩薩に由来する信仰です。
この信仰により、道端や寺社の周辺には、多くの地蔵の石像が創られました。
地蔵菩薩は、苦しむ人々を救い、救済の存在とされています。
そのため、地蔵像は人々にとって、心のよりどころとなり、信仰の対象とされました。
地蔵信仰には、子供の守り神としての側面もあり、親子の絆や子供への愛情を表すものとして、人々の生活に深く根付いていました。
多くの親が、子供たちを地蔵の前に連れて行き、祈りを捧げました。
さらに、地蔵信仰は、道徳的な教えとも、結びついています。
地蔵菩薩は苦しむ人々への慈悲と忍耐を象徴し、悩みや困難に立ち向かう、勇気を与えてくれる存在とされました。
他者への思いやりや、助け合いの精神を育み、社会の結束力を高める役割も、果たしました。
(ご利益あふれる!お地蔵さまの佃天台地蔵尊|ほうろく地蔵|笠地蔵のお話を読んでみる)
【道祖神】(どうそじん)
江戸時代、道祖神の石像は、集落の入り口や交差点、道路沿いなどに立てられることが、一般的で、災いから集落を守ると、信じられていました。
これらの石像は、しばしば夫婦の姿で、表され、多くの場所で祀られました。
道祖神は、安産や縁結びの神としても信仰され、人々の生活や幸せに関わる存在と、されました。
人々は、道祖神を信仰し、道祖神の石像は、地域ごとに異なる姿や表情を持ち、その風貌から地元の特産物や歴史、伝説とも関連付けられ、人々にとって、地域の結束や安心感を、もたらしました。
道祖神信仰は、地元の人々の誇りや絆を象徴し、日本の伝統や信仰の一端を伝える貴重な要素となっています。
伊勢参り(いせまいり)と伊勢講(いせこう)
伊勢参りは、江戸時代、何度か大流行しましたが、江戸時代末期の1830年頃には、500万人以上もの人々が伊勢神宮を参拝する盛況ぶりでした。
伊勢への道中では、多くの人々が歌い踊りながら
「えじゃないか、えじゃないか」と叫び、集団で、伊勢神宮のお札をまいた、と伝えられています。
人々は興奮し、祭りのような雰囲気で、参拝を楽しんでいたのです。
しかしながら、伊勢参りは、一般庶民にとって負担が、大きい旅行であり、資金的な面や時間的な制約もありました。
そのため、「伊勢講」と呼ばれるグループが結成され、集落の人々が旅費を積み立て、くじで選ばれた代表者が、全員分の伊勢神宮のお札を取りに行く組織が、できました。
この仕組みにより、旅費の負担が分散され、多くの人々が伊勢参りに参加することが、可能になりました。
伊勢参りに訪れる人々の数が、非常に多かったため、人々の情熱は、関所を通り抜け、関所は、機能しなくなり、通行手続きも通常通りには、行われないほどでした。
伊勢参りは、人々にとって特別な信仰の対象であり、旅行としての楽しみも兼ね備えていたため、社会全体に活気と喜びをもたらす大きなイベントとなりました。
富士講(ふじこう)
古来、富士山は、霊山として崇拝され、その美しさと威容は、多くの人々を魅了し、『富士山登山』と『富士山信仰』は、非常に盛んでした。
【富士講】とは、富士山登山に行くためのグループが、結成されたものです。
また、江戸時代では、江戸市内のさまざまな場所に、小型の富士山である「富士塚」が築かれ、その上に富士の浅間神社が建てられ、造園が、施されました。
ここで参拝を行い、お茶やお酒を楽しみながら、参拝客たちが大いに盛り上がりました。
現在でも、東京23区内には、40以上の富士塚が残っており、台東区の浅草富士や文京区の駒込富士、練馬区の江古田富士などでは、盛大な富士山の山開きのお祭りが、催されています。
富士講や富士塚は、人々が富士山への信仰心を深める場として重要な役割を果たしました。
富士山への信仰は、現代でも根強く残っており、多くの人々が富士山登山を目指しています。
江の島詣で(えのしまもうで)
江戸時代の巡礼ブームにおいて、庶民たちにとって、江の島は、人気の目的地でした。
遠方のお伊勢参りや富士山登山には、手が届かなかった庶民にとって、比較的近郊に位置する江の島の弁財天詣でが、大変、人気となりました。
なぜなら、この詣では2〜3日の小旅行で、楽しむことができたからです。
江の島は、東京湾に浮かぶ美しい島であり、島には弁財天を祀る神社があり、商売繁盛や厄除け、縁結びなどのご利益があるとされていました。
庶民たちは、江の島への詣でを通じて、江戸庶民たちは、日頃の労働や生活のストレスを忘れ、幸運や福徳を求める機会を得ました。
また、江の島は文学や浮世絵などの芸術作品にもしばしば登場し、その魅力が、さらに広まりました。
有名な浮世絵師・葛飾北斎も江の島を題材にした作品を残し、人々の関心を引きました。
現代でも江の島は、観光地として人気があり、多くの人々が訪れます。
島には観光施設や名物の飲食店、アクティビティが充実しており、海辺のリゾートとして多くの魅力を持っています。
江の島詣の歴史や庶民の娯楽としての役割は、現代においても続いています。
成田詣で(なりた もうで)
江戸時代の巡礼ブームにおいて、江の島詣と同様に、近隣地域への小旅行として、大変、盛んに行われたのが、成田山新勝寺への参拝でした。
成田山新勝寺は、弘法大師空海が創建した寺院であり、広大な境内を有し、壮大な山門や立派な仏堂などがあり、不動尊信仰の大本山として知られています。
この寺には、弘法大師が開眼したとされる不動明王の尊像が、本尊とされ、多くの信者が参詣しました。
田詣は、庶民にとっては、比較的アクセスしやすい目的地であり、特に江戸周辺の人々にとっては、日帰りの小旅行として人気を集め、参拝客は、その壮麗な建築物に圧倒されながら、信仰心を深めることが、できました。
また、成田詣においては、参拝だけでなく、縁結びや厄除けの祈願も、行われました。
成田山新勝寺は、多くの人々にとって、願い事を叶える場所となりました。
現代でも、成田山新勝寺は多くの信者や観光客が訪れる人気のスポットです。
成田詣の歴史とともに、新勝寺の美しい建築物や厳かな雰囲気、信仰の深さに触れることができます。
成田詣は、遠くへの巡礼を難しく感じる人々にとって、特別な体験や心の安らぎをもたらすものとなっています。
大山詣で(おおやま もうで)
江戸時代の巡礼ブームにおいて、相州(現在の神奈川県)や相模国の大山詣も、人気を集めました。
大山詣では、まず大山の中腹に位置する大山阿夫利神社への参拝が、行われました。
この神社は、霊山である大山の中心的な存在であり、多くの参詣客が神社を目指しました。
大山阿夫利神社は、縁結びや商売繁盛の神様として信仰され、願い事を叶えるために多くの人々が、訪れました。
さらに、大山詣では、奈良の東大寺を開山した “良弁僧正” によって開かれた大山寺への参拝も行われました。
大山寺は、大山不動尊を本尊とし、二童子像も祀られていました。
参詣者はこの寺にお参りし、不動尊や仏像に敬意を払い、信仰心を深めました。
大山の自然美や、神社や寺院の壮大な雰囲気に触れながら、信仰心を高めることが、できたのです。
大山の豊かな自然や、信仰の対象となる神社や寺院の存在は、多くの人々にとって心の安らぎや癒しをもたらすものとなっています。
善行寺参り(ぜんこうじ まいり)
善行寺参りは、長野県長野市にある善光寺への参拝のことを指します。
善光寺は、日本有数の仏教寺院であり、その本尊は阿弥陀如来像です。
しかし、注目すべきは、この像が7年に1度しか公開(開帳)されない、ということです。
このため、人々は開帳の時期に合わせて参拝を行いました。
参詣者は、長い間像を拝むことができなかったため、開帳されるたびに多くの信者や観光客が集まり、善光寺周辺は、賑わいを見せました。
善行寺参りは、信仰の対象である阿弥陀如来像への信心だけでなく、地元の文化や伝統に触れる機会でもありました。
また、善光寺は歴史的な背景を持ち、信仰の中心地としての役割も果たしてきました。
特に戦国時代には、信仰の対象となり、戦国武将たちも善光寺に参詣しました。
現代でも、善光寺は多くの人々にとって重要な寺院であり、善行寺参りは人気のある信仰行事です。
善行寺参りは、信仰心を深めるだけでなく、地元の文化や歴史に触れることができる特別な体験です。
長野県長野市に訪れる際には、善光寺参りを計画してみると良いでしょう。
金毘羅参り(こんぴら まいり)
金毘羅参りは、香川県多度津郡にある金毘羅宮への参拝のことを指します。
金毘羅宮は、商売繁盛や多くのご利益があるとされる神社で、古くから商人や船乗りなどが、信仰し、商売の成功や、安全な航海を祈願する場所として、重要視されてきました。
そのため、商売繁盛や財運向上を願う人々にとって、金毘羅宮は特別な存在です。
また、金毘羅宮は、美しい景観や歴史的な建造物も魅力の一つです。
境内には立派な本殿や社殿があり、伝統的な建築様式を見ることができます。
香川県はうどんの名産地としても知られており、金毘羅参りの帰りには地元の美味しいうどんを楽しむこともできます。
金毘羅参りは、商売繁盛やご利益を求める人々にとって特別な意味を持つ信仰行事です。
香川県を訪れる際には、金毘羅宮への参拝を考えてみてください。
江戸時代の巡礼ブームのご利益
江戸時代、巡礼は、庶民の間で広まり、開運や願いの成就を求める重要な手段となりました。
また、巡礼は社会的な交流の場でもあり、旅の中で他の巡礼者や地元の人々との交流が生まれ、新たな絆が結ばれました。
さらに、巡礼には、景観の美しさや自然の力強さを楽しむことも含まれており、自然との調和を求める庶民の心を満たしました。
江戸時代の巡礼ブームは、開運だけでなく、人々の信仰心や心の安らぎの追求、そして地域の人々の結束、社会の繁栄に大きな影響を与えました。
その人気の背後には、庶民の願いや希望、そして社会の変化がありました。
今日でも、その歴史と文化は私たちの生活に息づいており、巡礼の精神は、未だに受け継がれています。