戦国時代の大きな出来事
約100年にわたる戦国時代は、織田信長の京都制圧、足利幕府の将軍追放から、本能寺の変を経て、豊臣秀吉の関白太閤就任により、天下統一を成し遂げ、戦国時代は、終焉を迎えたといえます。
戦国時代の終焉
1598年、豊臣秀吉の病死と共に、政治体制は、五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)五奉行(前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家)の10人の合議制となり、不安定となったため、他の諸大名も自らの思惑で動き出し、天下の行方は、混沌となってきました。
天下の行方に最終的な決着をつけ、戦国期の合戦の総決算をつけたのが、天下分け目の関ヶ原の戦い1600年(慶長5年)です。
この関ヶ原の戦いの勝者となった徳川家康は、3年後の1603年(慶長8年)に、征夷大将軍に就任しました。
徳川家康は、江戸幕府を開き、徳川幕府体制は、長く、300年にわたる天下泰平の世を生み出したのです。
徳川家康が平和な世の中を創り出したのですね!
「織田がつき、羽柴(豊臣秀吉)がこねし、天下餅、座りしままに、食うは、徳川」
といわれた落首(作者不明の狂歌)は、特に、有名です。
織田信長や豊臣秀吉が、戦いに続く戦いで、苦労して、まとめあげた天下統一を、徳川家康が最後に取り上げて、うまくやったな。という意味ですね。
関ヶ原の戦いの戦況
徳川家康(とくがわ いえやす)の率いる東軍と、豊臣家を守ろうと立ちあがった石田三成(いしだ みつなり)、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)らの連合軍の西軍は、交通の要所である美濃(岐阜県)関ケ原で、1600年(慶長5年)9月15日明け方に激突しました。
兵力は、両軍とも約80,000と、拮抗していましたが、各軍の陣の配置としては、西軍が山上に陣取り、盆地にいる徳川家康の率いる東軍を取り囲むような形でした。
西軍の方が、優勢でありましたが、開戦しても、西軍の小早川秀秋軍、毛利秀元軍の大軍が軍を動かさず、いくさに参加しなかったため、西軍は、実質は、徳川家康の率いる東軍の約半分の兵力で戦うことになりました。
西軍が東軍の約半分になったのは、事前に東軍の徳川家康が、ひそかに、西軍の小早川秀秋には、裏切りをするようにと指示し、毛利秀元と、毛利家の(親戚)吉川広家には、戦いに参加しないことを要請していたのです。
関ケ原の戦いは、午後になっても、少数の西軍の石田三成、宇喜多秀家、大谷吉継(おおたに よしつぐ)の軍が奮戦し、徳川家康の率いる東軍を押す場面もあり、勝敗の行方は、一進一退で、混沌としていました。
西軍の大将である石田三成も、
「今、松尾山の山の上の”小早川秀秋”軍が、すぐわきにいる徳川家康の本陣に突っ込めば、西軍の勝利は、間違いない!」
と、小早川秀秋に出陣の催促を再三、行いましたが、小早川秀秋は、一向に動きませんでした。
動かなかった西軍の小早川秀秋自身は、
「もしかしたら、予想外に西軍が勝つのでは?」
と、東軍・徳川家康との事前の約束通りに、西軍を裏切ることをためらっていたのです。
一方、西軍を裏切る気配をまったく見せない、西軍の小早川秀秋軍に対して、怒った東軍の徳川家康は、西軍を裏切ることをためらっている小早川秀秋軍をめがけて、鉄砲の一斉射撃を行い、「早く動け!」と、西軍への裏切りを催促しました。
この時の「早く動け!」と、小早川秀秋への鉄砲の発砲は、徳川家康の『問い鉄砲』といわれています。
東軍の徳川家康が、怒っていると恐れた小早川秀秋は、全軍を反転させ、西軍の大谷吉継軍に攻撃を開始し、突っ込んでいきました。
小早川秀秋の裏切りをきっかけに、脇坂泰治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の軍も、西軍を裏切り、小早川秀秋軍に続き、西軍の大谷吉継軍を攻撃、西軍の大谷吉継軍は、壊滅、宇喜多秀家軍、小西行長軍、石田三成軍も敗走しました。
西軍は、総崩れとなり、1600年(慶長5年)9月15日夕刻には、徳川家康の東軍の大勝利となったのです。
東軍は、大将の徳川家康を中心に、統制が取れていましたが、西軍は、豊臣家の家臣が、バラバラで、団結できなかったことが、敗因ですね。
西軍を裏切った小早川秀秋の生い立ち
関ケ原の戦いの勝敗を決定づけた裏切り者の代名詞となる小早川秀秋(こばやかわ ひであき)は、豊臣秀吉のいとこで、豊臣秀吉の養子となり、羽柴秀俊(はしば ひでとし)という名前に改名しました。
豊臣秀吉の正室の北政所に育てられましたが、豊臣秀吉に実子の豊臣秀頼が誕生すると、今度は、小早川家の養子となり、名前を小早川秀秋と改名し、筑前(福岡県)30万石の領主となりました。
小早川秀秋は、本来は、豊臣方の西軍の大将となるべき存在でしたが、豊臣秀吉側の奉行だった石田三成には、小早川秀秋の領地を減らされるなど、仲が悪かったため、(敵の)徳川家康とは、親しい間柄でした。
関ケ原の戦いの後の武将たちの行く末は?
徳川家康は、関ケ原の戦いの勝利により、名実ともに、天下人となりました。
石田三成は、関ヶ原から敗走し、自分の領地の近江(滋賀県)の伊吹山で、とらえられ、京都で小西行長らとともに、処刑されました。
大谷吉継は、当時、重病で、目も見えなかったのですが、関ヶ原の戦いで、もっとも奮戦し、小早川秀秋軍の裏切りにも、対応しましたが、最後には、切腹しました。
小早川秀秋は、関ケ原の戦いのあと、裏切りの褒美として、徳川家康から、備前・美作(岡山県)50万石を与えられましたが、大谷吉継や、石田三成の怨霊に憑りつかれたと噂され、大酒を飲み、体を壊し、関ケ原の戦いの2年後に21歳で、病死しました。
小早川秀秋は、子供もいなかったため、小早川家は、断絶しました。
脇坂泰治は、裏切ることを事前に徳川家康に知らしていたため、所領安堵、伊予大洲(愛媛県)53,000石に加増されました。
朽木元網は、裏切る動きが不審であったので、20,000石から10,000石に減らされました。
小川祐忠、赤座直保の両名は、事前に裏切り約束が、なかったため、主に領地を没収されました。
戦いに勝った軍でも裏切った武将は、その後、あまり、良い目には、合っていないようですね。
大事な場面で、裏切る武将は、再度、同じように裏切るかもしれないと、信用されなかったのでしょう。
逆に徳川家康の代々の家臣たちは、忠義を尽くす者が多かったといえます。