徳川四天王の一人、本多 忠勝(ほんだ ただかつ)。
その名は、戦場での勇敢な戦いと、徳川家康への忠誠心で、知られています。
本多 忠勝の武勇は、抜群で、通算57度の合戦で、先鋒を務めながら、一度も傷を負わずに戦い抜いたと伝えられています。
本多 忠勝の武器といえば、天下の三名槍の一つである「蜻蛉切」と、名工;相州正宗の作とされる「中務政宗」という刀です。
本記事では、本多 忠勝の輝かしい戦歴や、愛用の武器、そして、徳川家康への忠誠心に迫ります。
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)の履歴
本多 平八郎 忠勝(ほんだ へいはちろう ただかつ)(1548年<天文17年>生まれ)は、徳川四天王の一人で、幼少期から、徳川家康に仕え、多くの武功を挙げました。
忠勝の武勇は、非常に優れており、徳川家康の家臣として57度もの合戦に参加しました。
しかも、そのほとんどで、先鋒を務め、傷一つ負わずに、戦い抜いた、といわれています。
本多 忠勝の戦いぶり
一の章
13歳で、尾張国、大高城の兵糧入れで、初陣を飾りました。
二の章
1582年(天正10年)、本能寺の変の際には、堺で滞在していた、徳川家康と、共に、岡崎城へ、帰還する「神君伊賀越え」の危機を、自らの槍で、地元の土豪を威嚇し、襲ってくる敵を次々と倒し、無事、徳川家康を帰還させました。
徳川家康は、無事に、岡崎城へ帰還したのち、
「この間の危難、万死を免れたのも、ひとえに、忠勝の力なり」
といって、忠勝を称賛した、といわれています。
近江国(現在:滋賀県)信楽まで逃れた、徳川家康一行を、地元の多羅尾 光利(たらお みつとし)が、自らの屋敷に迎え入れようとしたところ、徳川家康の一行の多くは、多羅尾一族が、既に、明智光秀の味方に付いており、徳川家康が殺されると疑っていました。
しかし、忠勝は、
「我らは、小勢で、危難の中にいるのだから、彼(多羅尾)が、多勢を率いてくれば、とても叶わない。
多羅尾が、二心(裏切りの心)を有するならば、こちらが、城に行かなくても、向こうから、兵を差し向けるだろう。
(徳川家康の一行が)城(多羅尾の屋敷)に、行っても行かなくても、死ぬるならば、行って死ぬがよかろう」
といいました。
徳川家康の一行一同は、この忠勝の肝のすわった意見に賛成し、多羅尾の屋敷に泊まり、無事に、休息しました。
三の章
徳川家康軍が、武田信玄軍に大敗した「三方ヶ原の戦い」では、忠勝の勇敢な戦いです。
忠勝は、「しんがり」(後退する軍勢の最後尾の部隊)を引き受け、鬼のような顔つきで立ち向かい、武田軍の追撃を食い止め、徳川家康を無事に逃がすことに成功しました。
その勇戦ぶりは、敵将の武田信玄からも絶賛され、
「家康に過ぎたるものが二つあり、からの頭と、本多平八」
と称されました。
「からの頭」とは、やくの毛で作られた兜飾りのことで、中国チベットが原産であり、日本では珍しいものでした。
徳川家康は、この「からの頭」の兜飾りを愛用していました。
また、本多平八とは、本多忠勝のことを指しています。
徳川家康を無事に引き揚げさせ、後に忠勝が、浜松城に帰還した際、彼の旗指物はやぶれ、鎧には折れた矢が、5本も刺さっていましたが、忠勝自身は、無傷でした。
本多 忠勝の武器
忠勝が、愛用していたのは、「天下の三名槍」の一つである「村正/ 作」の「蜻蛉切(とんぼきり)」という槍でした。
この蜻蛉切は、切れ味が、非常に優れており、戦場で、立てて置いた、槍先に飛んできた、トンボが触れると、瞬時に、トンボが、真っ二つに、切断されるほどでした。
そのため、この槍は、「蜻蛉切り」と呼ばれるようになりました。
この槍は、黒い朱塗りで、槍の長さは、6メートルで、通常の槍の2倍の長さでした。
そして、刃の長さは43センチです。
その名が槍を本多忠勝は、馬に乗って、ブンブンと振り回す、とてつもない怪力を誇りました。
また、もう一つ、忠勝が、愛用したとされる、刀の名前は「中務政宗」といい、日本刀作りの名工である相州正宗(別名:五郎入道政宗)が、作った名品で、現在は、国宝に指定されています。
本多 忠勝の晩年
その後、忠勝は、徳川家康の関東移封に伴い、上総国(現在:千葉県)の大多喜十万石を賜り、大多喜城の城主になりました。
「関ヶ原の戦い」の後は、伊勢国(現在:三重県)、桑名十万石・桑名城を与えられ、桑名では、城の築城や、城下町の整備にも、功績を残しました。
最終的には、忠勝は、桑名城で、1610年(慶長15年)に、亡くなりました。
本多 忠勝、63歳でした。
本多 忠勝についての考察
鹿の角の兜をかぶり、長い槍を携え、敵の猛将を相手に一歩も引かぬ、抜群の戦いぶりを見せる忠勝は、戦国時代における、最も優れた武将として知られています。
忠勝の戦功や、忠誠心は、その時代の武人の中でも、特筆すべきものであり、多くの人々に称賛されました。
忠勝の人物像について、考察すると、忠勝は、家康への忠誠心が非常に強く、そのために命を捧げる覚悟を持っていました。
また、忠勝の戦闘技術や、勇敢さには、優れた才能が、備わっていたと言えるでしょう。
戦国時代の混乱した時代背景の中で、忠勝は、徳川家康に仕えることで、自身の存在意義を見出し、家康の信頼を得ることに、成功しました。
本多忠勝の事績や人物像は、忠勝が戦国時代の武将としての理想を体現しているといえます。
忠勝の勇気、忠誠心、そして戦場での卓越した戦闘力は、後世の人々に多くの感銘を与え、今日でも、「本多忠勝」の名は称えられています。