開運物語

開運神事!大相撲の伝統文化が巻き起こす縁起の良いブーム

アイキャッチ_開運神事!大相撲 開運物語

古来、大相撲は、日本の国技といわれる伝統的な格闘技で、日本の文化にも、深く根差した神事としての伝統文化であるともいわれています。

大相撲は、格闘技としてのルールや技術だけでなく、神事としての要素も、持ち合わせています。

例えば、大相撲の力士たちは、土俵に入る前には必ずお神酒を飲み、土俵の周りには縁起物である松や梅、竹などが飾られています。

また、大相撲の興行は、多くの人々が集まるイベントとしても知られています。

特に、年に数回開催される本場所は、各地から多くのファンが集まり、縁起の良い場所としても注目されています。

大相撲の起源は、神話時代

大相撲の起源は、古事記や、日本書紀の中に記されている ”神話時代” の野見宿禰のみのすくねさんと當麻蹶速たいまのけはやさんの力比べの勝負の伝説によるもので、勝負は、野見宿禰さんが當麻蹶速さんの鋤骨じょこつを蹴り折って、腰を踏み砕いて、當麻蹶速さんは、この勝負で命を落としてしまいました。

あっくん
あっくん

神話時代の相撲は、殴る、蹴る、踏みつけると、とても荒々しいのですね。。。

その後、大相撲は、農作物の収穫を祝う祭りの儀式として、また、宮中の神事としても、長らく行われました。

戦国時代の武士の時代には、大相撲は、武士の戦闘の訓練として、盛んになり、各地の戦国大名が、各々の居城で力士を集めて、相撲大会を催したとされます。

江戸時代の大相撲の大ブーム

江戸時代に入り、1624年(寛永1年)徳川幕府公認の勧進かんじん相撲が、開かれました。

勧進相撲は、もともとは、神社仏閣の本堂の造営、修復などの資金集めの為に、開催された、興行で、力自慢の大男のプロの力士たちによる取組みを、江戸の一般庶民が、お金を払って、見物して、楽しむ娯楽でした。

以前の大相撲は、土俵がなく、周囲の人垣に押し出せば、勝利というルールだったので、力自慢の力士や、興奮した観客同士の喧嘩けんかがたえず、世間を騒がして、風紀を乱したので、大相撲は、一旦、禁止されました。

その後、土俵が造られ、ルールも定められ、取組みの勝敗が、明らかとなり、決まり手も豊かとなった為、江戸や、その他、京都、大阪の巡業が、復活しました。

大相撲は、1700年の元禄の頃には、人気に火がつきました。

江戸では、本所の回向院、深川の富岡八幡宮、湯島天神などで、さかんに、徳川幕府公認の勧進相撲が、開催されました。

1780年から1800年頃(天明~寛政年間)には、谷風 梶之助、小野川 喜三郎、雷電 為右衛門などの強豪人気力士が登場しました。

力と技の大男たちの大激突に、江戸の庶民は、大熱狂し、人気力士の相撲錦絵にしきえ(ブロマイド)が飛ぶように売れ、歌舞伎でも、相撲が題材となった作品が大ヒット、江戸は、空前の大相撲ブームとなりました。

1782年(天明2年)、2年間7場所にわたって、63連勝中であった無敵の『谷風 梶之助』に対して、新鋭の『小野川 喜三郎』が、土をつけ、勝利しました。
その勝負(『谷風 梶之助』対『小野川 喜三郎』)以降、二人の対決は、江戸中の注目の大熱戦となりました。

1789年(寛永1年)には、両者は、同時に横綱に昇進し、時の将軍:徳川家斉いえなりの観戦する上覧じょうらん相撲でも、結びの一番を勤めました。

この時の勝負は、『谷風 梶之助』の勝利でした。

その翌年の1790年(寛永2年)には、古今無双ここんむそう史上最強といわれる『雷電為右衛門らいでん ためえもん』が、台頭たいとうして、江戸の大相撲の人気は、不動のものとなりました。

【江渡時代】強豪力士のご紹介

古今無双・雷電 為右衛門

雷電 為右衛門らいでん ためえもん(本名:関 太郎吉)は、史上最強の力士といわれ、21年間の相撲人生において、254勝10敗2分けで、勝率は、9割6分2厘の史上最高勝率を誇る強豪で、生涯わずか、10敗、それも完全な力負けは、なく、取りこぼしによるものだけでした。

身長6尺5寸(約197cm)、体重45貫(約169kg)の当時の小柄な日本人の中では、飛びぬけた、超大型の力士で、あまりの強さから、張り手、突っ張り、かんぬき、の3つの技を、禁じ手とされましたが、そのハンデを、ものともとせず、勝利を積み重ねました。

雷電 為右衛門は、飛びぬけた好成績でありましたが、なぜか、地位は、大関のままで、横綱には、なっていません。

横綱になっていない理由は、横綱免許を受けていないためですが、これには、理由があり、これは、江戸時代の横綱の地位は、現在のような幕内の最高位の地位ではなく、徳川将軍が、観戦するような上覧相撲などの儀式の上で、その興業限りの特別な地位であった為とされています。

あまじん
あまじん

当時は、大関が幕内の最高位の地位だったのですね。

また、雷電 為右衛門が、横綱の推薦を辞退した ともいわれています。

他にも、雷電 為右衛門のお抱え主の松江藩・松平家と、横綱の免許を与える熊本藩・細川家の 大相撲の興行 をめぐる 対抗意識があって、雷電 為右衛門が、横綱に推薦されなかった ともいわれています。

徳川家斉の観戦した上覧相撲で、横綱に昇進した2人 の内の一人、『谷風 梶之介』は、横綱4代目になりました。
もう一人の『小野川 喜三郎』は、横綱5代目になっています。

谷風 梶之助

谷風 梶之助(本名・金子 与四郎)は、陸奥国仙台出身、仙台藩お抱え、身長6尺2寸(約188cm)、体重43貫(約161kg)、通算成績258勝14敗16分け、勝率9割4分9厘です。

小野川 喜三郎

小野川 喜三郎(本名・川村 喜三郎)は、近江国大津出身、久留米藩お抱え、身長5尺8寸(約176cm)、体重37貫(約140kg)、通算成績144勝13敗4分け、勝率9割1分7厘です。

初代、二代目、三代目の横綱は?

横綱とは、最高位の力士であり、その地位には一定の条件を満たすことが求められます。

『初代横綱は、明石志賀之助』、『二代目は、丸山権太左衛門』、『三代目は、綾川五郎次』とされていますが、彼ら3人(初代横綱~三代目横綱)は、(横綱4代目)谷風 梶之助らの横綱昇進時の前例として、名前が挙げられたもので、3人の経歴や成績は、はっきりとは、していません。

令和時代の大相撲

両国国技館

最近では、大相撲がさらにブームとなり、多くの人々が開運グッズとして大相撲グッズを利用するようになっています。

例えば、力士の名前が書かれた縁起の良いお守りや、力士の顔が描かれた縁起の良いタオルや茶わん、人形(フィギア)などの様々な限定開運グッズがあります。

また、大相撲の興行に合わせて、縁起の良い料理やお菓子やお土産なども販売され、多くの人々に、喜ばれています。

開運先生
開運先生

大相撲は日本の国技としてだけでなく、神事や縁起物としても多くの人々に愛されています。

江戸時代から受け継がれてきた伝統文化として、今後も多くの人々に親しまれることでしょう。