開運物語

江戸時代の魅力溢れる曲芸と細工見世物・名人たちの世界

アイキャッチ_江戸時代の魅力溢れる曲芸と細工見世物・名人たちの世界 開運物語

江戸時代には、娯楽が限られていた中で、人々は盛り場での見世物を最大の楽しみとしていました。

江戸市中の両国、浅草、上野などには、さまざまな見世物小屋が立ち並び、その多様な種類は人々の好奇心をくすぐりました。

今回は、当時の見世物の中でも特に魅力的なもの、人間の鍛え抜かれた肉体を駆使して披露される技術や芸能、そして、その名人たちをご紹介します。

この記事を通じて、あなたも江戸時代の興奮と驚きに包まれることでしょう。

軽業(かるわざ)

江戸時代の見世物の中で、最も人気があったのは軽業でした。

軽業とは、個人の肉体を駆使して行う技のことで、さまざまな華麗なパフォーマンスが披露されました。

当時の軽業には、つなわたり(綱渡り)、青竹登り、足技、篭脱け、空中ブランコ、曲独楽など、現代のサーカスに似た演目が、ありました。

特に、身の軽い子供たちは、欠かせない存在であり、「上乗り」として活躍しました。

子供たちは、幼少期から厳しい修行を積み、その鍛錬が、名人を生み出す道となりました。

子供たちの柔軟性と機敏さは、見世物の一環として大いに称賛され、観客を驚かせました。

軽業の技術は、華やかなショーとして人々の心を魅了し、江戸時代の娯楽の中心となっていたのです。

曲馬(きょくば)

曲馬とは、馬に乗ったパフォーマンスで、馬の上で逆立ちをしたり、馬の上で2人で立ち上がったり、馬で梯子はしごを登ったり、馬の上で、片足でバランスをとったりする技を披露しました。

ただし、単なるアクロバットだけでなく、芝居の要素も取り入れられ、馬上でのセリフや動作が行われ、それが『馬上芝居』と呼ばれる一面もありました。

1861年(文久元年)には、横浜の外国人居留地で、アメリカ人のリチャード・R・リズリー・カーライル(通称:プロフェッサー・リズリー)率いる西洋サーカス団が初めて来日し、ダイナミックな西洋曲馬を披露しました。

このサーカス団は、日本の観客にとっては新鮮で驚きに満ちたエンターテイメントでした。

曲馬は、見世物の一環として広く親しまれ、馬との息の合った華麗なパフォーマンスは、人々の心を魅了しました。

細工見世物(さいくみせもの)

細工見世物は、伝説的な人物や歴史上の名場面を、籠細工の人形や細工仕掛けを使ってスペクタクルに演出する見世物でした。

これは、現在のテーマパークで見られる立体的なキャラクター展示に近いものといえます。

このような視覚的な見世物は、観客にとっても理解しやすく、魅力的な体験となりました。

江戸や大阪では、細工見世物である『籠細工』の興行が行われ、驚異的な数の観客が集まりました。

数十万人という大規模な観客動員は、社会現象とも言えるほどの大ブームを巻き起こしました。

籠細工の興行は、見世物産業の一環として、人々に喜びや驚きを与え、江戸時代の娯楽の中心的存在となりました。

開運先生
開運先生

江戸時代の名人たちは、その卓越した技術や芸術を磨くために、長い訓練と努力を重ねました。
努力は達成するまで時間もかかるし、自分ではどこまで進んでいるのか、目に見ることは出来ず、わからないものです。
名人たちのように、スキルや能力を向上させるためには、時間とエネルギーの投資が必要です。

スペクタルショー

名人たち

早竹 寅吉(はやたけ とらきち)

江戸時代の幕末期に大いに人気を博した軽業の名人です。

特技は、足芸や青竹登りで、その演目は非常に印象的でした。

例えば、仰向けに寝て足を挙げ、足の裏で青竹を支え、その上で子供がぶらさがり、様々な技を披露し、見事な形を作り出しました。

開運先生
開運先生

演目には、高度な集中力と忍耐が必要でした。
開運には、忍耐強く目標に向かって進むことが不可欠です。

早竹寅吉は、京都生まれで、京都の寺町・誓願寺境内での人寄せ芸から、キャリアをスタートさせました。

その後、大阪の難波などで興行を行い、評判を呼び、堺(大阪府)、伊勢(三重県)、宮島(広島県)、徳島(徳島県)など各地でも公演し、人気を博しました。

江戸では1857年(安政4年)に西両国で初めて公演を行い、大成功を収めました。

1867年(慶応3年)には一座を率いて横浜からアメリカに渡り、サンフランシスコやニューヨークなどで公演を行い、評判を集めました。

しかし、ニューヨークで巡業中の1867年2月8日、心臓病のために亡くなりました。

彼の死は、大きな衝撃を与えました。

竹沢 藤次(たけざわ とうじ)

竹沢藤次は、江戸で生まれ、下谷で育った芸人一家の出身です。

初代の詳細は、不明ですが、二代目となる竹沢藤次が、1844年(弘化元年)に西両国で行った興行は、空前の大成功となり、江戸中で広く知られる存在でした。

竹沢藤次は、一躍『芸長者』として名を馳せました。

竹沢藤次の興行が、人気を博した秘密は、大規模な仕掛けと、華やかな演出にありました。

彼は、曲独楽だけでなく、宙乗りや水芸、からくりなど、軽業的な要素を取り入れた、総合的なスペクタクルショーを展開しました。

その華やかなパフォーマンスは、観客を魅了しました。

開運先生
開運先生

開運には、新しい視点やアプローチを見つけ、創造力を発揮することが役立ちます。

一田 庄七郎(いちだ しょうしちろう)

籠細工見世物の元祖である一田 庄七郎は、もともと大阪の籠職人であり、名前は『市田正七郎』とも、いわれています。

デビューとなった見世物は、1819年(文政2年)に大阪市天王寺の西門で行われた釈迦涅槃像の籠細工で、大成功を収めました。

その作品は高さ約29メートルの巨大な釈迦像で、四天王や動物、鳥などの籠細工で、囲まれていました。

この見世物は、非常に人気を博しました。

同年、江戸の浅草でも、彼の興行が行われ、三国志の関羽像をテーマにした、大規模な籠細工が展示され、瞬く間に江戸中で、話題となり、空前の大ヒットとなりました。

一田庄七郎の籠細工の大成功を受けて、多くの細工職人が全国各地で、様々な籠細工見世物を行い、一大細工見世物のブームが、巻き起こりました。

この功績は、細工見世物の発展に、大きな影響を与えました。

開運先生
開運先生

人間の鍛え抜かれた肉体を駆使して、披露される技術や、芸能には、魅力を感じましたね。

あっくん
あっくん

曲馬や、細工見世物の記事も、興味深かったです!
細工見世物では、籠細工の人形や仕掛けを使って、伝説の人物や、歴史の場面を再現して、すごいなぁと、その魅力と歴史的な意義に感銘を受けました。

開運先生
開運先生

開運には、感謝の気持ちを持ち、日常の小さな幸せや成功に喜びを見出すことが大切です。
感謝の心を持つことで、ポジティブなエネルギーを引き寄せ、幸運を招くことができます。

あまじん
あまじん

伝統的なパフォーマンスやエンターテイメントの影響は、現代の娯楽産業にも、継承されていることを知ることができました。