偉人の遺産

【三井高利の人生哲学】成功を手にするために学ぶべきこと!

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江戸時代、商業界に多大な功績を残した三井高利(みつい たかとし)

三井高利の生涯や思想は、今なお多くの人々に愛され、学ばれています。

このブログでは、三井高利がどのような人物であったか、どのような思想を持っていたのかについて紹介しています。

成功を手にするためには、三井高利の教えから学ぶことができるかもしれません。

江戸時代中期、多くの人々に【理想の商人】【大商人の手本】(世の重宝)と称えられ、大活躍した大商人がいました。

現在まで続く、三井グループ企業の元祖『三井 高利(みつい たかとし)』です。

それでは、三井高利の生涯とその思想を追っていきましょう。

高利、子供時代

三井家は、もともとは、武士の家系で、祖父:三井高安の代で近江(滋賀県)から、伊勢(三重県)に、さらに、父:三井高俊の代で松坂(三重県)に移り住みました。

三井高利は、伊勢松坂で1622年(元和8年)、8人兄弟(4男4女)の末っ子として、生まれました。

三井高利の両親は、松坂で、質屋と酒と味噌の小売店を営んでいましたが、父親の高俊は、元来、商売には、関心がなく、また、三井高利が12歳の時に亡くなってしまったので、商売は、もっぱら、母の珠法が、店の切り盛りをしていました。

母:珠法は、相当な商売上手であったといわれています。

幼いころから、母の珠法から、商売のコツを日常的に学んだ三井高利は、14歳で、初めて江戸に出ます。

高利14歳で江戸デビュー

当時、兄の俊次(長男)、三男の重俊は、すでに、江戸の日本橋で、小さな呉服商を営んでいました。

三井高利は、その下で働き始めましたが、持ち前の勤勉さと母譲りの商売上手さで、メキメキと頭角を現し、20歳の頃には、江戸の店を任され、兄たちよりも、優れた手腕を見せ、店の財産は、8年後には、当初の15倍の財産を持つまでになりました。

高利、28歳で松坂へ帰郷・Uターン

三井高利28歳、1649年(慶安2年)、松坂で、母親を支えていた兄(三男)の重利が、急死したため、高利は、松坂に戻ることとなりました。

三井高利は、自分の後任の江戸の支配人を多くの番頭連中ではなく、以前から、見どころがある。と見込んでいた、飯炊きを務めていた ”庄兵衛” を抜擢しました。

庄兵衛は、三井高利の見込んだ通り、益々、店を繁盛させ、『越後屋の庄兵衛』として、兄(長男)の俊次を支え、その名を残します。

一方、松坂に戻った三井高利は、地元の名家(中川家)の娘:かねと結婚しました。

高利、金融業を始める

三井高利は、江戸で蓄えた資金を元手に、松坂で、金融業を始めました。

得意先は、紀州徳川家、伊勢藩藤堂家などの大名家のほか、松坂の有力な豪商、領内の村々の百姓衆に、貸し付けを行うなど、地元松坂の地縁血縁の一大ネットワークを築き、着実に資金と信用を増やしていきました。

三井高利には、3人の息子がいました。

長男:高平たかひら、二男:高富たかとみ、三男:高治たかはるがいましたが、三兄弟(息子たち)には、江戸の兄の俊次の店で、商いを学ばせ、三井高利は、松坂にいながら、江戸の情報を逐一、三兄弟(息子たち)から、聞き取りました。

江戸の復興、開発計画への介入、米相場の見極めなど、三井高利の商才は「およそ、常人のおよぶ所では、なかった」(三男:高治談)といわれています。

開運先生
開運先生

高利は、やることなすこと、ビシビシと大当たりさせる、天才的な才能(商売の感)を持っていたのです!

高利、再び、江戸へ

1673年(延宝元年)、江戸の兄(長男):俊次が死去したのを機に、ついに三井高利自身が、満を持して江戸に出向きます。

本人:三井高利52歳のことです。

開運先生
開運先生

当時は、52歳だと、もう隠居されてもいい歳といえるのに、新しい仕事をされるということは、すごい!としか言いようがありません。

江戸日本橋本町1丁目(現在の日本銀行本店の一角)に、越後屋を開店しました。

京都にも呉服の『仕入れの店』を開きました。

着物

越後屋では、三井高利の長男の高平は、京都で仕入れを、二男の高富と三男の高治は、江戸の店を担当し、また、松坂時代の番頭と丁稚(でっち=小僧さん)たちも、江戸に呼び寄せ、さまざまな経験を積み、三井高利自身は、江戸と松坂を行き来しながら、商売の指示を出していました。

開業の当初は、江戸の武家などの大口の得意先は、なく、小売りや行商人を顧客にするほかは、なかったのですが、奉公人たちには、商売上と生活上の注意事項を記した『諸法度集』を作成して、規律を徹底しました。

『諸法度集』の内容

・武士に対して、従来、商売の常識であった掛け売りを禁止にする。

・番頭と手代(てだい=部下)らは、毎月、定期的に会議をすること。

・平日も雨の日の夜に会議をすること。

・手代は、互いに喧嘩をしないようにせよ。

・万一、喧嘩が起こった場合は、年長者が納めよ。

・手代から丁稚に至るまで、身分保証人のいない者は、雇い入れてはならない。

・衣類も絹など華美なものを着てはいけない。

・小遣いは、規定以上に使用してはいけない。

・やむを得ない支出(自分のおこづかい)は、支配人の許可を得ること。

と、商売上の決まりから、奉公人個人の生活上の注意まで、細かく規定しました。

他方、優れた働きぶりを見せたものには、大きな褒美を与え、奉公人の故郷の産物などを取り寄せて、事あるごとに、皆に食事を分け与えるなど、奉公人への心配りは、きめ細かく、配慮されました。

開運先生
開運先生

三井高利は、商売第一で、質素倹約に努めることを求め、当時のどんぶり勘定的な商売を改めたのです。

日本初の『現金、掛け値なし』

当時の呉服商の商売は、武家などの大口客の家に、1軒1軒、足を運んで、見本の反物をお客様に見せて、気に入ったものを後日、納品するという形でした。

代金の集金は、年に2回(盆と暮れ)の支払いとなっており、集金と、帳簿の整理には、膨大な時間と労力がかかり、結果として、商品代金の価格も、高額となっていました。

一方、三井高利の越後屋は、画期的な『現金、掛け値なし!』という商法で、店頭での販売が中心でした。

その場で現金決済、商品の仕入れも、大量に買い付けて、お客様への納品も、希望に応じて、仕立てて、集金の手間も、帳簿管理の手間も、かからず、その分をほかの店より、大幅に安く、価格設定ができました。

この『現金、掛け値なし』の商法は、江戸中の大評判となり、商売自体が一変し、越後屋は、大繁盛することとなりました。

しかし、同時に、同業者による、激しい、いろいろな嫌がらせや、妨害を受けることにもなりました。

江戸の呉服商の仲間から、はずされて、取引先、仕入れ先に、商売の中止の手を回されたり、越後屋で働いている番頭や丁稚などの引き抜き工作なども、何度も、仕掛けられました。

しかし、三井高利の越後屋は、従業員を大切に扱い、一層の結束を固め、また、事情を理解する取引先、仕入れ先を確保することで、乗り越えました。

同業者による妨害は、更にエスカレートし、隣接する商店から、越後屋の台所に向けて、雪隠せっちん(トイレ)を作って、汚物を流されたことには、ほとほと困り果てました。

汚物を流されたことに対して、三井高利は、越後屋を日本橋本町から日本橋駿河町(現在の三越日本橋本店の一角)に、同業者に気づかれない様に、秘密裏に準備を進め、速やかに移転しました。

日本橋駿河町の越後屋には、さらに、お客様が詰めかけるようになり、三井家の評判は、高くなる一方で、江戸幕府の御納戸払方御用(おなんどはらいかたごよう)(徳川将軍の衣服を調達する商店)の役目となったことにより、妨害は、徳川将軍家に、たてつくこととなってしまうため、妨害は、一切、収まりました。

また、1690年(元禄3年)、徳川幕府の『御用両替商』として、公金を納める役目に就きます。

徳川幕府の『御用両替商』に就いた、4年後の1694年(元禄7年)に、三井高利は、74年の生涯を閉じることとなります。

この時の越後屋の総資産は、72,000両を超え、当時の江戸幕府の全歳入(現在の日本の国家予算)の6%を占めるものであり、三井高利一代で、築き上げた、途方もない金額であるといえます。

江戸時代の商い

高利が残した言葉

三井高利は、自身の商売の考えや経営訓を書面に、書き残すことは、なかったのですが、三井高利の三男:高治の著書『商売記』の中で、三井高利の基本的な商売の考え方が、記されています。

なかでも、三井高利の独特な考え方を少し見てみましょう。

①平和を保つ天下様(徳川幕府)への恩を決して忘れてはならない。
どのような商売でも、乱世(戦争)時では、金銀や荷物が、不安定で、まともな商売は、できない。

開運先生
開運先生

商売は平和な社会で行うべきであり、戦乱や紛争を避けることが重要です。
平和な環境が維持されることで、商売が繁盛しやすくなります。

②商人は、不動明王のように表向き(外面)は、厳しく、内心は、慈悲の心で、あふれていることが、望ましい。
(三井高利自身も、そのように心がけて、手代や子供を度々、愛情に満ちた言葉で、叱っていました)

③商売は、1年1日も始まりを大切にすること。
また、かたときでも、商いの心を忘れてはならない。

④始末(倹約)しない商人は、どれだけ、商いをしても、いつまでも、一流には、なれない。

開運先生
開運先生

浪費を避け、賢明な経済管理を行うことが大切です。
節約と質素倹約を実践し、無駄な出費を減らすことで、財産を守り、経済的な安定を保つことができます。

⑤商いの基本は、身体の養生にある。
だから、自分自身の身体を大切にすること。
神様にもまず、子孫の繁栄と延命を祈ることが、大切である。

⑥商売の情報を集めること、こそ、商売のコツである。
来店した商人には、酒を飲ませて、商売先の噂話をさせること。
逆にこちらは、訪問先で、酒を飲んで噂話をしては、いけない。

⑦急な商売の大当たりは、大変、危険なことである。
商売は、慎重にすることこそ、大切なことである。

開運先生
開運先生

運も商売に影響を与える要素の一つですが、自分の努力と計画によって幸運を引き寄せる努力を怠らないことが大切です。

⑧お客様を利すること(お客様の得すること)こそが、長期的には、当方の利益となる。

高利以後の三井家

三井高利の死後、残された子孫たちは、三井高利の教えを、後世に、伝え継ぎました。

家業をおろそかにする三井家の同族は、隠居させるか、伊勢松坂に押し込めにして、一族で、協力して、商売を盛り立てました。

ほかの多くの豪商や大商人が、過度な貸し付けの失敗で、破産や、豪華な浪費生活をして、江戸幕府から、とがめられ、財産を没収されるなど、没落することが、多々ありました。

三井家は、時代の大きな変化や困難<幕末の江戸幕府の滅亡、太平洋戦争の敗戦、戦後の財閥解体>などを乗り越え、三井越後屋の小売業の販売(呉服商)、金融業(両替商)から始まり、銀行、総合商社、鉱山、化学、造船、重工業、製造業、を展開し、現在の三井グループ企業に至っています。

現代の至宝・三井記念美術館

現在、三井高利ゆかりの地、東京日本橋には、三井本館があり、三井本館内の7階には、三井記念美術館があります。

江戸時代、三井家の元祖、三井高利以降、収集してきた数多くの茶道具、襖絵、屏風、掛け軸、絵画、能面、能装束、などの美術品を所蔵しています。

特に茶道・茶の湯は、大名や公家などと、商売上の関係を結ぶ手段として、重要であったため、商売一筋に生きた三井高利の趣味であったともいえます。

また、一代で、財を成した三井高利の強運・開運・福の神への信心の元ともなる素晴らしい名品、芸術品の数々(国宝6点、重要文化財75点を含む4,000点以上の美術品)が、展示され、今日でも、三井高利自身が愛用した茶碗『赤楽茶碗』や三井越後屋の様子が描かれた『駿河町越後屋正月風景図』を見ることができます。

開運先生
開運先生

『三井高利』は、商人の道徳的な指針や経営哲学として、後世に受け継がれ、日本の商業界での価値観や倫理に影響を与えました。
また、三井家は、日本の有力な商家の一つであり、その家訓は多くの商人によって尊重され、実践されました。