100年前に誕生した山下清は、放浪画家として知られ、その才能から「日本のゴッホ」「裸の大将」と呼ばれました。
白いランニングシャツに半ズボン、大きなリュックを背負い、昭和時代の日本列島を下駄ばき姿で歩く姿は、彼の象徴ともいえるもので、多くのメディアを賑わせました。
今回は、この天才画家・山下清がどのような生涯を送り、どんな足跡を残したのかを、彼自身の記録や言葉を通して探ってみたいと思います。
天才画家・山下清の軌跡
1922年(大正11年)、東京市浅草区田中町に生まれた山下清は、幼少時に言語障害などでいじめに遭い、その後、千葉県市川市にある知的障害施設である八幡学園に入園しました。
学園では、教育の一環としてちぎり絵(貼り絵)に触れ、その才能が開花します。
昭和12年には、清が15歳のときに臨床心理学者である戸川幸雄教授らの尽力で、はり絵の展覧会が早稲田大学で開催され、作品集が出版されました。
この展覧会では多くの画家や文化人、ジャーナリストから賛辞を受けました。
昭和15年、18歳のときに清は八幡学園を逃げ出し、放浪生活を始めます。
各地で住み込みの仕事などに従事しました。
清は「八幡学園に6年半いるので、学園が飽きてほかの仕事をやろうと思って、個々から逃げて行こうと思っているので、上手に逃げようと思っていました。逃げた日は、昭和15年11月18日に逃げたのです」と述べています(裸の大将放浪記より)。
昭和18年、21歳のときに、清は放浪生活から母の元に戻り、母の勧めで軍隊の徴兵検査を受けますが、不合格となり兵役免除となりました。
清は「もし、合格だったら、兵隊に行って、散々殴られて、戦場へ行って、怖い思いをしたり敵の弾に当たって死ぬのが一番おっかないと思っていました」と述べています(裸の大将放浪記より)。
山下清の「花火」に秘められた平和の思い
戦争画とは、単なる戦争の光景を描いたものではなく、軍部が画家たちに画材を配給し、都合の良い絵を描くよう圧力をかけたものでした。
これは、国民を戦争へと駆り立てる手段であり、その時代の著名な画家たちは、これに従わざるを得ませんでした。
社会の風潮に押され、山下清の絵にも戦争の影が忍び寄ることとなりました。
しかし、彼が好んで描いたのは高射砲、軍艦などの典型的な戦争画ではありませんでした。
清は「みんなが爆弾なんか作らないで、きれいな花火ばかり作っていたら、きっと、戦争なんて、起きなかったんだな」と語ります。
これらの言葉は、彼の絵に込められたメッセージに説得力を与えています。
放浪と再帰、そして最期の発見
山下清は、東京大空襲と戦後の混乱の時期に全国を放浪しました。
そして放浪に疲れたら、八幡学園に戻る生活を繰り返しました。
昭和28年、清が31歳の時、アメリカの「ライフ」誌の記者が、清の少年時代の作品集を見て天才と絶賛しました。
この賞賛をきっかけに、彼の行方を追い求める動きが始まります。
まず、朝日新聞がこれを察知し、清を日本のゴッホと紹介し、清の捜索記事を大々的に報じました。
「日本のゴッホ今、いずこ」(昭和29年1月6日、朝日新聞、社会面の大見出し)
この記事により、天才画家と称された異才の青年が長期の放浪で行方不明となり、彼を呼び戻して才能を伸ばしたいという周囲の思いが広く知れ渡りました。
朝日新聞の報道は注目を集め、やがて鹿児島市で清を見かけた高校生が彼を発見しました。
この出来事は写真入りで大々的に報じられ、週刊誌も追跡取材を行い、清は一気に有名人となりました。
結果として、清は八幡学園に引き戻され、豊富な画材が与えられました。
山下清の波乱に満ちた人生
清は一転して有名人となり、どこに行っても見つかってしまい、もはや自由な放浪の旅をすることはできませんでした。
この制約の中で清はたえられず、再び得意の脱走を試みますが、有名人ゆえにすぐに見つかり、引き戻され、誓約書を書かされます。
「ルンペンをやめろというから、やめますが、ルンペンをしたら病気だと思ってください」と正直に書き、すぐに脱走しました。
清の最大の楽しみは食べることで、肉や甘い物が好物で、お酒はあまり飲みませんでした。
季節によって北上し暑い場所を避け、寒くなると南下するなど、気ままな旅を楽しんでいました。
線路沿いを歩けば行き先を見失わず、迷わず、寝泊りは駅の待合室や温泉町の共同湯の脱衣所など、寝心地の良い場所でした。
朝が来ればお椀を手に一汁一飯を乞うてまわり、昼夜に物乞いしてもらえるまで歩きました。
飯がもらえない時は「ないんだな」といっているそうで、昔の日本の温かさが感じられます。
また、飯がすぐにもらえる町は親切な町で、もらえない町は薄情な町だといい、特に親切な町として新潟県と鹿児島県が気に入っていたようです。
夏は新潟県へ、冬は鹿児島県へと歩くうちにリュックはだんだんと膨らみ、筋金入りのルンペンになりました。
盗みも喧嘩もしないからこそ、長い放浪ができましたが、時には災難にもあいました。
仲間にリュックを盗まれたり、海水浴でおぼれかけたり、精神病院に入れられそうになったりしましたが、知恵を絞って脱出し、疲労困憊で弱り切って八幡学園に戻ることもありました。
有名人になった山下清
昭和31年、清が34歳のとき、彼の放浪日記が東京タイムズに連載されました。
これが話題になり、山下清の作品展が東京大丸百貨店で1か月間にわたり開催され、入場者は80万人を超え、大成功を収めました。
同時に、清の人生を追った記録映画「裸の大将・天才画家・山下清」も公開され、全国で約50か所で山下清展が催されました。
山下清のヒット作
昭和33年、清が36歳のとき、東宝映画「裸の大将」(主演:小林桂樹)が公開され、大ヒットとなりました。
昭和41年、清が44歳のとき、京都南座で「裸の大将」(主演:芦屋雁之助)の特別公演が開催され、大きな人気を博しました。
清の放浪は「裸の大将」として、映画やテレビドラマで何度も放送され、そのストーリーでは、旅先で小さな事件が起こり、清が人情噺のように解決する様子が描かれていました。
映画やドラマの見せ場は、その場で制作した貼り絵により、清が山下画伯であることが判明するストーリーでした。
しかし、清は裸の大将の放映にはあまり納得していなかったようで、「世の中は、半分ぐらいが本当ならいいことになっているんだなぁ」と述べ、自分がおもしろおかしく表現されることは決して本意ではなく、嫌だったようです。
山下清とのお別れ
昭和46年、清が49歳のとき、自宅で突然倒れ(脳出血)昏睡が続き、7月12日の朝、「今年の花火は、どこへ行こうか」と言い残し、逝去しました。
一途に歩み続けた清の生活は、人々の心に深く残り、私たちの心を捉え、離さないものとなりました。
清の遺作展は、大丸百貨店で開催され、日々多くの観客が押し寄せました。
この展覧会は全国50か所で3年間にわたり続き、やはり清は裸の大将として大変人気でした。
あとがき
山下清の生涯に触れると、彼の異才と風変わりな生き方に感動を覚えます。
清は社会の枠に収まることなく、自由な放浪の中で芸術と人間愛に満ちた独自の世界を築き上げました。
清が残した絵画や貼り絵、そして裸の大将としての活動は、彼の個性と芸術的な才能を象徴しています。
ただ単に芸術作品としてだけでなく、彼が追求した自由と人間性の価値を伝えています。
山下清の遺産は、清の生きざまと芸術が引き継がれ、未来の世代にも影響を与えることでしょう。
彼のような個性的で自由な発想は、新しいアイデアや価値観の芽生えを促進する一因となります。
山下清の生き方から学ぶべき点がたくさんあります。
彼のように枠にとらわれず、自分らしく生き、芸術や人間愛を大切にすることが、人生において真の充実感や幸福感を見つける手助けになるのです。
清の遺産は、私たちに開かれた視点や新たな可能性を提示してくれ、それに触れることで人生に新たな活力が湧いてくるでしょう。