元寇は、鎌倉時代(1180〜1336年)のお話です。
元寇とは、13世紀末から14世紀初めにかけて、モンゴル帝国の皇帝フビライ・ハンの国が、日本に侵攻した2度の戦争(文永の役・弘安の役)のことです。
日本側は、鎌倉幕府の執権・北条時宗のもと、勇敢に戦い、最終的には「神風」と呼ばれる突然の暴風雨(現:台風)によって、元軍の大大船団は、壊滅し、日本は、元帝国の攻撃から、守りきることができたのです。
鎌倉時代、執権の北条氏を中心とする鎌倉幕府の政治も第3代執権の北条泰時の頃には、日本国内では、戦いのない平和な安定期を迎えていました。
しかし、その後、思わぬ強敵が現われたのでした!
強大なモンゴル帝国の皇帝フビライ・ハンです。
フビライ・ハンは、モンゴルから、東は、現在の中国朝鮮半島まで、西は、イラン・イラクなどの中東、トルコ、ルーマニアなどヨーロッパの一部まで、ユーラシア大陸のほとんどを支配下に収め、首都を中国の大都に移し、国名を『元』として、元の初代皇帝となりました。
フビライ・ハンは、日本にも、強大な元帝国に従うように、都合六度も、使者を送りましたが、第8代執権の北条時宗は、通知を拒否、使者を無視し続け、最終的には、元の使者を切り殺しました。
元と戦うことを決意したのです。
1度目の戦い【文永の役】
1274年(文永11年)10月5日、世界最強の帝国、元の30,000人余りの大軍が、対馬(長崎県)に現れ、襲撃、その後、博多湾(福岡県)にまで、軍船を進め、上陸する寸前でしたが、10月20日、暴風雨が襲い、大船団は、突如として、姿を消してしまいます。
元軍は、当時、世界最強の軍団で、日本にはない『火薬を使った爆発で、鉄の破片が飛び散る武器(てつはうという新兵器)と毒矢』を使い、集団戦闘で、ドラや鐘を叩き、統率された戦いを行いました。
一方、日本の武士は、おのおのが手柄を取ろうと、好き勝手に戦い、大変な苦戦をしいられました。
この元軍の一度目の戦いを文永の役といいます。
突然の暴風雨により、なんとか、元軍の侵攻を撃退した北条時宗は、再び、元が襲ってくると考え、博多湾沿岸や中国地方の海岸の防備を固め、戦術も見直していました。
2度目の戦い【弘安の役】
やはりというべきか?元軍の2度目の攻撃があるのです!
文永の役の7年後、1281年(弘安4年)5月21日、再び、元の大軍が日本を襲いました。
この2度目の元軍の攻撃を弘安の役といい、今度は、全軍140,000人、3,500艘以上の大船団で、博多湾(福岡県)から、長門(山口県)を攻撃しました。
対する日本の武士団は、新しく作った某土塁・石垣の上から、矢を射かけ、夜襲をかけて、船に火を放つなど、勇敢に戦い、なんとか、元軍の上陸を水際で防いでいました。
元軍のあまりの大軍に日本軍は、もうダメかとあきらめかけたその次の日、朝、起きると、元の船は、消えていたのです。
またしても突然の暴風雨が、元軍を襲い、元軍の船は、荒波にのまれて、全体の約8割の船が、海に沈んでしまったのです。
こうして、神風によって、未曽有の国難を逃れることができたのです。
この2度にわたる元軍の襲来を元寇といいます。
日本は、神の国、強大な敵が来ても神風が吹いて、神様が守ってくれるという思想の根本ですね。
日本は、必ず勝つ。
日本は、神の国で、神様が守ってくれるという思想につながるのです。
3度目の戦いは、ある?ない?
モンゴルの元帝国のフビライハンは、日本だけでなく、ビルマやベトナムにも遠征しました。
その時に、再び、3度目の日本侵攻を目指していたのですが、あまりに広大となった支配地域の中から、相次いで反乱が起こり、その対応に追われ、日本侵攻は、断念したのです。
鎌倉幕府、元寇のあとの影響は?
この2度の元軍の襲来によって、北条一族を中心として、安定していた鎌倉幕府の政治は、大きな影響を受けることとなります。
幸運にも、神風が吹き、鎌倉武士が懸命に戦いました。
戦いの末、元軍を撃退したのは、実に見事でしたが、新しい領土を得たわけではないので、命がけで戦い、活躍した武士たちには、充分な恩賞が与えられませんでした。
また、本土防衛のための備え等で、多大な出費が必要となり、貧困にあえぐ者も多く現れ、鎌倉幕府の北条氏の政治体制に大きな不満を持つ者が、次々と現われてきたのです。
元寇以降、鎌倉幕府の北条氏の政治体制は、不安な雲行きとなっていき、急激に弱体化しました。
元寇から、約50年後の1,333年に、約150年続いた鎌倉幕府は、ついに滅亡するのです。
武士の活躍により、政治の実権を京都から東国に移した鎌倉時代は、終焉を迎え、再び、東国に政治の実権が戻るのは、その後の室町時代、戦国時代、安土桃山時代を経て、約300年後の徳川家康が江戸に江戸幕府を開く、江戸時代まで待つこととなるのです。
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元寇を契機とする日本の神風思想とは?
古来、日本には、『日本は神の国であり、神様が国を守り、人々を守ってくれる』という思想があります。
この思想は、2度にわたる元寇の戦いで、神風が吹き、日本が勝利を収めたことで、より強く信じられるようになりました。
元寇の戦いでの神風は、まさに神々からの恩恵であると考えられ、日本人はこの出来事を奇跡的なものとして、日本を守ってくれた神々に感謝しました。
元寇の戦いに勝利したことは、日本の神々が国を守り、人々を守ってくれるという思想を強化し、信仰を深める契機となりました。
元寇での神風は、日本の歴史や文化、信仰にとって重要な出来事であり、奇跡的な勝利であったとされています。
この出来事は、日本人にとって、開運の象徴としても捉えられ、今でも多くの人々にとって、幸運に導く象徴的な存在となっています。