開運物語

徳川幕府の火消したちと大火災の闘い-炎の中で奮闘する

アイキャッチ_徳川幕府の火消したちと大火災の闘い 開運物語

江戸時代には、多くの大規模な火災が発生し、「火事と喧嘩は、江戸の華」といわれていました。

当時の江戸は、世界一の大都市で、急激な人口の増加と、燃えやすい木造の建物が、密集して、建てられており、火災が起こると容易に広がってしまい、大規模な火災が、発生し、火事の被害は、甚大なものでした。

江戸三大火事

『明暦の大火』(振袖火事)1657年(明暦3年)

1657年(明暦3年)『明暦の大火』(振袖火事)は、江戸三大火事の一つです。

江戸市中の三分の二が焼失し、推定死者数10万人以上ともいわれる大惨事となりました。

日本橋から江戸城まで、江戸城の本丸が焼失し、死者は、10万人以上、江戸三大火事の中で、延焼面積と死者数も、最大でした。

焼失した江戸城の天守閣は、再建されませんでした。

火元は、本郷丸山の本妙寺でした。

また、小石川の伝通院の表門、麹町の3か所から連続して、火災が発生しました。

本妙寺の失火については、この火事の別名が、振袖火事といわれている由来ともなっています。

裕福な商人の娘が、本郷の本妙寺に、母と墓参りに行った帰り道、寺子姓の美少年に一目ぼれをし、”恋の病” で、ひどく体調を崩し、娘の体調を案じる両親が、身元の分からない寺子姓が着ていたものと同じ、荒磯と菊柄の振袖を仕立てて、娘に渡しました。

娘は、その振袖を抱いて、彼を想い焦がれる日々を送っていましたが、結局、病は、悪化し、娘は、この世を去ってしまいました。

娘のお葬式の日に、供養にと、娘の棺に形見として、振袖をかけて、葬りましたが、振袖は、本妙寺の寺男によって、古着屋に転売され、次の持ち主の町娘に渡ってしまいました。

しかし、この振袖の持ち主の町娘が、次々と、病気で死去することとなり、さすがに この振袖 に因縁を感じた本妙寺の住職は、問題の振袖を寺で焼いて、供養することにして、護摩の火の中に入れました。

振袖を投げ入れると、やにわに強風が吹き荒れて、火のついた振袖は、火の粉を散らしながら、空に舞い上がり、寺に火が移って、火は瞬く間に、あたりに燃え広がったということです。

また、別に、連続して、火元が3か所(本妙寺の他に小石川、麹町)もあることから、江戸幕府が、江戸の都市計画を再構築するために、”わざと放火した” という説もあります。

『明和の大火』(目黒行人坂の大火)1772年(明和9年)

江戸三大火事の一つで、目黒から日本橋、千住まで、延焼、死者18,000人以上の火事です。

江戸市中のうち、半数以上が焼失しました。

火事の原因は、真秀しんしゅうという坊主が、盗み目的で、目黒行人坂の大円寺に忍び込んで、放火し、火は、折からの強風にあおられて、江戸の町の三分の一(1/3)が、焼失しました。

真秀は、後日、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)に捕縛ほばくされ、小塚原で、火あぶりの刑になりました。

『文化の大火』(車町火事)1806年(文化3年)

江戸三大火事の一つ、芝車町から出火し、浅草まで延焼しました。

三大火事以外の江戸の大火事

『天和の大火』(お七火事)1682年(天和2年)

駒込の大円寺より、出火した火事で、死者は、約3500人でした。

本郷追分の裕福な八百屋やおや太郎兵衛たろべえの娘、お七(八百屋のお七)が出火しました。

【お七】といえば、井原西鶴の小説『好色五人女』や、歌舞伎や浄瑠璃の演目:八百屋お七で、有名です。

天和2年12月、天和の大火といわれる火事が起こり、お七の父親:太郎兵衛の店(八百屋)の近隣である大円寺から出火しました。

多数の家屋が焼失し、太郎兵衛の八百屋も焼け落ち、一家は、円城寺に一時的に避難しました。

仮住まいをしましたが、その折に、お七は、寺小屋の寺子姓の佐兵衛さべえと恋仲となりました。

家が修復され、お七の一家は、元の家に戻りましたが、佐兵衛と離れ離れとなったお七は、佐兵衛に会いたい一心で、「火事で町が燃えてしまえば、また、お寺で、佐兵衛と会える。」と考えて、天和3年3月にお七は、火をつけてしまったというのです。

幸い、火は、すぐに発見されて、放火したお七は、南町奉行に捕らえられました。

放火したお七は、放火の罪で、火あぶりの刑に処せられ、お七は、16歳で、命を落としました。

あまじん
あまじん

さて、ここで、私たちは、お七が火をつけた『お七火事』を大火として、考えていましたが、もともとは、大火は、その前の『天和の大火』で、お七火事は、単なる ”ボヤ” なのです。

開運先生
開運先生

井原西鶴が、この話を美少女の恋愛小説『好色五人女』として、発表すると、一気に大評判となり、歌舞伎や浄瑠璃としての大人気の演目ともなり、『お七火事』は、江戸時代有数の大火として、誤って、人々に記憶されているのです。

『八百屋お七』の由来の場所は、本郷通りから、旧白山通り周辺にいくつかありますが、現在の東京大学農学部から、本郷追分を旧白山通りに入り、第六中学校のあたりが、お七の実家:八百屋のあった場所では、ないかと考えられています。

また、都営白山駅のそばの円城寺の境内には、八百屋お七のお墓と八百屋お七地蔵尊があります。

『天和の大火』(お七火事)の火元となった大円寺には、お七の供養のために寄進された “ほうろく地蔵尊” が安置されています。

東京文京区にある大円寺

当時から、小説、歌舞伎、浄瑠璃などで、大人気の演目となっている八百屋お七のお話なので、現代においても、さまざまに脚色、または、モチーフとして、演劇、ドラマ化、漫画、アニメ化、されています。

あっくん
あっくん

「美少女と美男子の悲恋物語」
「業火に焼き尽くされる情念」
「恋人をかばって身代わりになる」
「あの世で一緒になる」
「運命に巻き込まれる」
「親子の愛情」
「後追い心中」
などと現代的な脚色をつければ、涙なくしては、見られない大作になります。

八百屋お七の辞世の歌があります。

「世の哀れ 春吹く風に 名を残し 遅れ桜の けふ(今日)散りし身は」

意味は、この世の中は、哀れ(かわいそう)なことです。

春の風に花を散らす桜の時期からは、遅れましたが、私も今日、散ります。

という意味でしょう。

『天保の大火』1834年(天保4年)

江戸市中の5分の1以上が焼失し、推定死者数1,000人以上とされています。

『地震火事』1855年(安政2年)

安政の江戸大地震による出火、死者約3,800人あまりでした。

これらの大火は、都市部における人口の増加や、火災防止対策の不備が原因で発生しました。

大火が発生すると、被害を最小限に抑えるためには、速やかな消火と適切な避難が必要です。

江戸時代の消火活動では、水桶による消火や、火を飛ばす「火消し」などの方法が用いられましたが、限られた資源では対応しきれず、大火の被害は避けられませんでした。

徳川幕府の火消し組織

徳川幕府は、度重なる火災に対処するためのに、火消しの組織を作りました。

『大名火消』

武家の火消しとして、大名火消だいみょう ひけし(各大名の火消組織)があります。

赤穂浪士が、吉良邸討ち入りの際に、大名火消の火事装束しょうぞくに身を固めていました。

『定火消』

定火消じょう ひけしは、江戸時代において、火災を防止するために定められた制度です。

幕府直属の組織で、定火消は、市中の諸役人や地域住民を選抜して編成され、火災を未然に防ぐために、日頃から火災予防の啓発や巡回活動を行い、火災が発生した場合には速やかな消火活動を行いました。

定火消は、江戸幕府の指導のもと、町奉行所によって組織されました。

各地域から選ばれた定火消には、公的な任務を与えられ、消火活動に必要な装備や消防用具を提供されました。

また、火災現場への出動には報酬が支払われ、消火活動において死傷した場合には、遺族には、補償が支払われる制度がありました。

定火消は、消火活動だけでなく、火災予防にも力を入れ、灰壺や水堀などを整備するなど、防火活動にも取り組みました。

このような取り組みにより、火災が発生する前に防ぐことができ、江戸市中の火災発生件数は減少しました。

しかし、一方で定火消制度には問題点もありました。

定火消が、選ばれる基準が、不明確だったため、適任者が選ばれず、消火活動に支障をきたす場合もありました。

また、定火消による火災予防活動が徹底されず、火災防止対策が不十分な地域もありました。

『町火消』と『火消人足』

もっともおなじみの火消組織、町奉行の大岡忠助により、創設された町人の火消組織で、『いろは48組』に、編成されて活躍しました。

江戸時代には、火事が頻発するため、火消ひけしと呼ばれる専門の消防士が存在しました。

その中でも有名なのが、町火消の火消人足ひけしにんそくと呼ばれる火消しです。

江戸時代の消火は、水で、火を消し止めるのは、非常に難しく、建物を壊して、延焼を食い止める破壊消防活動が主で、火消人足(とび職)が、それを担いました。

火消人足忍は、江戸幕府の直轄で、江戸市中の火災を鎮圧する任務にあたりました。

火災現場に駆けつけると、水をはじめとする消火道具を持って、火元に近づき、その場で炎を消し止めるために、素早く的確な判断を下し、果敢かかんに立ち向かいました。

火消人足は、火災現場に到着すると、まず周囲を確認して、炎の勢いや風向きなどを把握します。

その後、手際よく水や消火器具を使い、炎を鎮圧ちんあつします。

また、屋根や壁を壊して、隙間から炎を消火するという方法も使われました。

江戸市民からは、町火消の火消人足に対して、高い評価が寄せられ、多くの人気をはくしました。

彼らは勇敢で、華やかな火事装束で、身を飾り、正義感が強く、勇敢に身一つで、火の中に飛び込んで行って、常に危険な任務に身を投じる姿勢が、市民に認められ、感謝されました。

その人気は、非常に高く、歌舞伎や、浮世絵などにも、縁起の良い松や鶴と一緒に描かれました。

厄や災難を避けるため火を鎮める

火は人類にとって、極めて重要な存在であり、文明の発展に欠かせない要素であったため、火の神様や、火を鎮める神様が、古くから、信仰されていました。

火を鎮めることは、神様や自然の力に感謝すると同時に、火の災害を防ぐことでもありました。

江戸時代には、火災は、町全体を脅かす大きな問題であり、火事を起こさないことが市民の義務であったため、町火消をはじめとする火消人足は、大人気で、社会的にも高い評価を受けました。

こうした背景から、町火消と火消人足は、縁起が良いとされ、火を鎮めることは、厄や災難を避けるための一つの方法として捉えられてきました。

現代でも、火災防止の取り組みは、災害対策の重要な一環として、位置づけられており、意識も高まっています。

そのため、火災防止に携わることは、地域社会の貢献につながり、自分自身や周囲の人々を守ることに繋がるという意味で、現代でも縁起が良いといわれています。

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