人々は常に開運を求め、成功の道を探し続けています。
歴史には、巨大な富を手に入れた成功者たちの物語が数多く存在します。
紀伊国屋 文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)は、紀州みかん輸送で、成果を上げ、奈良屋 茂左衛門(ならや もざえもん)は、市場を制覇するために使った、巧妙な商法で、開運の道を切り拓きました。
紀伊国屋 文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)も、五代目:奈良屋 茂左衛門(ならや もざえもん)も、江戸時代の豪商で、共に、1657年(明暦3年)の『明暦の大火』(振袖火事)で、江戸の町に大被害が、出たことが、巨万の富を得る結果となったことは、間違いありません。
しかし、彼らの最後は、浪費により、急速に没落しています。
本記事では、江戸時代の日本において活躍した、紀伊国屋 文左衛門と、奈良屋 茂左衛門の生涯を取り上げ、私たちに成功へのヒントと、教訓を与えてくれるでしょう。
以下の文では
・紀伊国屋 文左衛門を(通称名の)紀文
・奈良屋 茂左衛門を(通称名の)奈良茂
と記載します。
紀文と奈良茂、開運の道を切り拓いた二人の成功者
大都市江戸の町づくりの、明暦の大火からの、復興事業にあたって、どれだけの木材と、人足が必要であったか、紀文と奈良茂にとっては、まさに、笑いが止まらないほどの大量の仕事量でした。
紀文は、江戸の寺院(上野寛永寺・根本中堂、護国寺)の建築で、大儲けし、奈良茂は、日光東照宮の工事で、大儲けをしました。
しかし、紀文 と 奈良茂は、共に、大変なバカげた豪遊ぶりで、大尽ぶりを競いました。
紀文が、俳諧師の宝井 其角(たからい きかく)や、人気絵師の英一蝶(はなぶさ いっちょう)らの、取りまきを連れ歩けば、奈良茂は、俳諧師の角蝶や、三味線の名人の小四郎を毎日のように連れ歩いて、遊びました。
ある日、奈良茂が、雪見をするために、上野・中の町の茶屋で、宴会をしていると、それを聞きつけた紀文は、奈良茂のいる茶屋の向かいの茶屋に入り、300両の小粒の銀を、雪の中にばらまきました。
周囲の人々は、先を争って、銀貨を拾い集めたので、きれいに整えられた庭の雪景色は、泥だらけになり、奈良茂の雪見の宴会は、台無しになってしまいました。
また、紀文が、江戸中の初ガツオを買い占めれば、負けじと奈良茂は、江戸中の蕎麦を買い占めるというあんばいでした。
そのようにお金にあかせて、豪遊の限りを尽くした二人でしたが、晩年は、揃って、没落しました。
紀伊国屋 文左衛門の生涯
紀文は、生年月日については不詳です。
また、出身地についても、明確な情報は、ありませんが、紀州(現在の和歌山県)の加太浦、湯浅町の別所、または、熊野浦のいずれかで、生まれたといわれています。
最初は、紀州みかんの江戸への出荷で、大きな利益を得ました。
嵐で、困難な状況の中、紀文は、決死の覚悟で船出し、和歌山のみかんを江戸へ輸送し、成功を収めました。
その後、江戸の京橋・本八丁堀に材木店を開業し、建築ブームの波に乗って、幕府と癒着しました。
彼は、幕府からの支援を受けつつ、巨大な工事を次々と請負い、一代で莫大な富を築きました。
しかし、彼の成功は長くは続きませんでした。
宝永通宝の鋳造の失敗による大損失や、彼と親交のあった幕府の権力者たちの相次いだ死亡(五代将軍:徳川綱吉の死去)や、失脚(勘定奉行:荻原重秀、側用人:柳沢吉保の失脚)により、彼は、支援を受けることができなくなり、一気に没落してしまいました。
1718年(享保3年)には、江戸の深川で、失意の中で亡くなりました。
奈良屋 茂左衛門の生涯
奈良茂は、三代目の時には材木運搬の人夫として働いていました。
四代目の奈良茂は、元々材木屋の手代でしたが、独立後に日光東照宮の修復工事を引き受ける機会を得て、その仕事を成功させ、一気に豪商となりました。
この時、奈良茂は、幕府の入札に参加し、市場相場よりも、はるかに安い価格で落札に成功しました。
また、日光東照宮の用材を確保するためには、茅場町の老舗である木曽檜家の柏木伝右衛門が、檜の用材を不当に買い占めているとの情報を得ました。
それを江戸町奉行に告発し、柏木伝右衛門を陥れ、ヒノキの溶剤を格安で、手に入れるという悪どい商法によって、大きな利益を得たのです。
柏木 伝右衛門
柏木 伝右衛門は、不届き者ということで、伊豆の新島に遠島、全財産は、没収されました。
それから7年後、柏木は、罪を許され、江戸に戻りましたが、自分を陥れた奈良茂が、繁盛を極めているのが口惜しく、自ら、食事を断ち、柏木 伝右衛門は、間もなく死去したといわれています。
奈良茂は、巨万の富を手に入れた後、吉原の遊里で贅沢な生活を楽しむなど、大尽のような遊びに、明け暮れました。
しかし、苦労知らずの五代目の奈良茂は、紀文と、張り合い、多額の浪費によって、急速に没落してしまいました。
奈良茂も、また、短期間で、全財産を失ってしまったのです。
江戸の豪商たちの考察
努力と機会の見極めと成功の要因
紀文は、紀州みかんの輸送事業を通じて、大成功を収めました。
彼は、困難な状況の中でも、決死の覚悟で挑み、潜在的な需要と利益を見極める能力を持っていました。
紀文は、建築ブームに乗って、幕府の権力者と癒着し、巨大工事を請負うことで、事業を拡大し、巨万の富を築きました。
また、奈良茂は、日光東照宮の修復工事を請け負い、そこで、豪商となりました。
彼は、機会を逃さず、幕府の入札で、利益を最大化する方法を見出しました。
この日光東照宮の用材の調達においては、巧妙に、競争相手を陥れて、利益を得ました。
そして、市場の状況を把握し、競争力を維持するために、創意工夫をしました。
失敗と挫折の教訓
紀文も、奈良茂も、豪遊と浪費によって、短期間で財産を失いました。
彼らの失敗は、自制心を欠き、持続可能な経済的な判断を怠ったことによるものです。
これらの教訓は、成功を収めるためには、適切な機会の見極め、柔軟性と創造性、リスク管理、そして節制と、持続可能な経済的判断が、重要であることを示しています。
また、成功には、一時の勝利だけでなく、長期的なビジョンと、経営戦略が不可欠であることも、示唆されます。