ここでは、江戸時代中期に、珍しい動物として、日本に、もたらされた象の物語を紹介します。
八代将軍・徳川吉宗が、象を観たいという要望から、物語は、始まります。
はるばるベトナムからやってきた象は、京都で従四位下の位を授かり、天皇の拝謁も受け、江戸で将軍に、対面しました。
その後、数奇な運命をたどり、危機を乗り越え、最終的に病気で亡くなりました。
しかし、その象の物語は、今でも多くの人々に語り継がれ、縁起物として広く知られています。
この記事では、象がもたらした開運の力についても触れています。
聖獣・霊獣の白象
古来、日本には、象は生息していなかったので、特に江戸時代、前期までは、その象の姿を実際に見た者は、非常に少なく、日本人にとっては、なじみが薄い、珍獣中の珍獣でした。
ただし、以前から、海外の象の存在は、日本でも、日本書紀などの書物や、伝文で聞き及んでおり、インドや中国から、象牙の美術品なども、贈られていたことが、記録でも、明らかになっています。
象は聖なる動物として崇められ、中国の伝統文化でも、象は縁起の良い動物とされ、神話や民間伝承に登場します。
もともと、インドの仏教においては、白象は、普賢菩薩の乗り物になるなど、仏法を守る動物の聖獣として、とらえられていました。
日本でも、白象を非常に縁起の良い聖獣・霊獣の一つとして、考えられ、古来より象は、縁起物として知られており、幸運をもたらすとされています。
象が開運をもたらすという考え方は、古代から広く世界各地で見られます。
例えば、インドや東南アジアの仏教文化では、仏陀が生まれる前に象に乗って、母親の夢に現れたという伝説があります。
想像する象の姿は
江戸時代前期までは、これまでに、伝えられていた象の特徴(体が大きく、非常に太っており、鼻は長く、大きな牙があり、耳は、大きく、目は、小さい)の情報を元に、有名な画家が、お城や寺社に、多くの壁画や襖絵などを描きました。
葛飾北斎は、象を体長10メートル以上もあるような、異様に大きな体で、目も切れ長で描き、河鍋暁斎は、耳が体の半分くらいある象が、座り込んで、猿回しの猿のように、曲芸をする姿を描きました。
いずれも、象の特徴を聞いただけで、象の実物を、見たことがないので、このような一風変わった姿で描かれました。
徳川吉宗、象を所望する
江戸時代の中期、享保の頃、8代将軍:徳川吉宗は、数々の経済政策を断行、自らは、1日2食、1汁3菜と粗食に徹し、倹約を旨してきましたが、一方、徳川吉宗は、『なんでも実際に見てみる、やってみる、行動してみる』という性分の人物であったようです。
徳川吉宗が「実際に、縁起の良い聖獣の象を見てみたい!」と、象を所望しました。
将軍・徳川吉宗の要望に応える形で、中国商人が、2頭のベトナム象を、長崎に連れてきたのです。
1728年(享保13年)6月13日、ベトナム象が、長崎港へ到着しました。
ベトナム象の到着の様子は、のちに、尾形探香・筆『象之絵巻物』に、描かれていますが、この絵巻は、川の水を飲む白象の絵から始まり、その後は、灰色の象が町をねり歩く姿や、餌を人の手から鼻で受け取る姿など、さまざまな姿が、描かれています。
将軍:徳川吉宗は、当初、白象を所望していたのですが、実際にベトナムから連れて来た2頭の象は、灰色で、7歳のオスと5歳のメスでした。
しかし、メスの象は、日本の気候や食べ物に順応できず、9月11日に長崎で死んでしまいました。
象の一行、江戸を目指して出発
その後、残ったオスの象が、日本の気候や生活にも慣れたころ合いを見て、ついに、翌、1729年(享保14年)3月13日に、長崎を出発しました。
1日3里~5里のペースで歩いて、京都を経由し、江戸を目指す長旅です。
海路を取らず、陸路をとったのは、当時、日本には、象を乗せるだけの大きな船が、準備できなかったからだとされています。
この世にも珍しい象の一行は、ベトナム人の象使い2名、通訳、長崎奉行の役人、など、総勢14名でした。
象の一行は、当然、道中の各地で、一大ブームを巻き起こしました。
象に関する書物、瓦版、絵画、版画、のほか、便乗商法のすごろく、刀のサヤや、印籠、などの小物まで、実に様々なものが、売り出されました。
道中の沿道では、多くの人々が、この珍しい象の一行を一目見ようと、大混乱するところですが、さすがは、江戸幕府のすることには、ぬかりがなく、象の一行が長崎を出発する前の2月に、勘定奉行・稲生正武から、通行先の村々に『御触書』(おふれがき)が出されました。
①象が通行する際には、見物人は、大声をださないこと。
②大きな音を立てないこと。
③騒がないこと。
④休憩地では、飼料、飲料水を用意すること。
⑤象が川を渡るための船の準備をすること。
⑥象の宿泊地では、大きめの馬小屋を作って用意すること。
⑦象に犬や猫など、動物を近づけないこと。
など、細部にわたる指示が記されています。
象のエサは、藁、笹の葉、樫の葉、その他の葉物と、橙、蜜柑、などの果物でありましたが、中でも、餡の入っていない(味のない)饅頭が、大好物で、象の気持ちが荒れて、暴れた時などは、ご機嫌直しに、饅頭を食べさせました。
象の一行、京都へ到着
4月26日、オスの象が、京都に到着しました。
4月28日、オスの象は、京都御所の宮中に参内します。
参内の時、朝廷から、象に『広南従四位白象』という官位が、与えられました。
これは、天皇に直接会うためには、ある程度の身分が必要とされていたからです。
ただし、このことは、朝廷の資料からは、確認は、できていません(噂話)
象は、中御門天皇の前では、前足を折って、膝まづくような体制となり、霊元上皇の前では、頭を垂れて、頭を下げるような格好になったといわれています。
周囲の公家たちも、「象は、天皇様や上皇様が、尊いということを知っていて、挨拶をしている!」と非常に感心しました。
その後、象の一行は、5月17日に箱根に到着しましたが、疲労の為、病気となり、4日間も、箱根で足止めとなりました。
象の一行、江戸に到着
享保14年5月25日、オスの象が、江戸に無事到着できました。
実に74日間に及ぶ長旅でした。
早速、5月27日に、将軍:徳川吉宗は、江戸城の本丸で、象と対面しました。
徳川吉宗は、非常に喜び、その後、全国の諸大名も、こぞって、象を見物しました。
その後、象は、浜御殿(浜離宮庭園)で、12年間、飼育されましたが、年間200両以上の飼育費が、かかり大変な負担となりました。
また、象が、象の小屋の番人を殺してしまうなどの事故もあり、当時から、象の世話をしていた中野村の源助に、1741年(寛保元年)4月に払い下げられました。
江戸の象の大衆の人気は、まだまだ大変なもので、中野村の源助は、象を鎖でつないで、見世物興行を行いました。
象が飼われていた飼育小屋は、現在の中野区にある朝日が丘公園という小さな公園のそばにありました。
(現在、『象小屋跡』の説明板があります)
象の見世物興行の人気は、次第に下火となり、象の餌代にも困る始末となり、翌年の12月13日に象は、21歳で病気で死んでしまいます。
象は、同じく、中野区の宝仙寺に葬られ、象の頭蓋骨と2本の牙が、収蔵され、お寺で展示されていました。
時は過ぎ200年後
それから、約200年後、太平洋戦争のとき、1945年(昭和20年)5月25日、東京大空襲で、中野一帯は、焼け野原となり、宝仙寺も全焼しました(ご本尊だけは、かろうじて、避難させました)
後日、宝仙寺の焼け跡から、大きな黒炭のようなものが出てきました。
それは、あの江戸時代に将軍にお目見えした象の牙の一部でした。
現在も、黒炭のような象の牙の一部は、宝仙寺の寺宝として、大切に保存されていますが、先代である当時の住職が、
「ずっと見世物とされて、一生を過ごした『象』が、最後に残った牙まで、見世物になるのは、気の毒だ」として、牙は、非公開とされています。
江戸時代には、日本では、まだ見たこともない『象』が、はるばるベトナムからやってきて、長崎に到着し、京都で従四位下の位をいただいて、天皇の拝謁も受け、江戸で将軍に対面し、長らく大切に飼育され、数奇な運命をたどった『象』のお話でした。
象の歴史は、今でも多くの人々に語り継がれ、日本の文化史に残る貴重な物語となっています。
縁起物の象
日本において、古来より象は、縁起物として知られており、幸運をもたらすとされています。
江戸時代には、将軍や大名たちが象を飼育し、縁起物として珍重されました。
象は、その巨体や堂々とした風貌から、力強さや長寿の象徴とされ、開運や幸運をもたらすと考えられていました。
今日でも、象の模様がデザインされた縁起物やお守りが販売されており、多くの人々に愛されています。
また、象にちなんだ慣用句やことわざもあり、「象に乗って大願成就する」という言葉があります。
象は、古代から現代に至るまで、縁起の良い聖獣として愛され続けています。
また、象の物語は、異なる文化との接触を示しており、異文化を尊重し受け入れる姿勢が、重要であることを示しています。
異なる視点や文化にオープンであることは、新しいアイディアや経験を受け入れ、自身の成長と運気向上につながります。
そして、象は堂々とした風貌を持っています。
この姿勢から得られるヒントは、自信を持ち、自分の能力や価値を認識することです。
自信を持つことは、成功への第一歩であり、ポジティブな考え方を強化します。
自信、異なる文化との接触など、これらの要素を日常生活に取り入れることで、より充実した人生を築くことができます。